折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

『狂気』と『正気』

2007-04-19 | 映画・テレビ
映画は子供の頃から大好きである。
しかし、映画だったら何でも言いと言う訳ではない。

映画は、見て① 『楽しい・面白い』ものでなければならず、また、その映像が十分に② 『美しく』なければならず、さらに見た者に③ 『感動』を与えてくれるものでなければならないと思う。
その代表例が、その昔見た『砂の器』であり、『ベン・ハー』であり、最近見た映画では、『武士の一分』である。


さて、大分前になるが『硫黄島からの手紙』を見た。

この映画を見に行くに際して、自分自身の中で葛藤があった。
第一に戦争映画は余り好きでないこと、第二にどう考えても前記の3要素を満たしているとは、思えなかったからである。それでも、敢えて見に行ったのは、「話題の映画」だからという好奇心からであった。

この映画を見ての感想は、人によってそれぞれであろうが、小生はこの映画の中で描かれる『狂気』と『正気』のコントラストが強く印象に残った。


その一

巡察中の特高の上官と部下が、国旗が掲揚されていない家を見つけて、女・子供だけの家族を叱責する。その物言いに怯えてほえる犬。腹いせと見せしめに上官は、部下に犬を殺してこいと命令する。若い部下は、家族が見守る中、犬を殺すに忍びなく、拳銃だけ発射して、殺してきましたと復命する。そして、次の瞬間、犬の鳴き声。激怒し、容赦なく犬を撃ち殺す上官の非情な『狂気』。犬の飼い主の前では、どうしても殺すことができなかった部下の『正気』
かくて、犬を助けようとしたこの若い特高は、最前線の地「硫黄島」へと送られるのである


その二

『捕虜となるよりは、自決せよ』という戦陣訓を『狂信的』に信奉する上官が、指揮官の『自決してはならない』という命令を平然と無視して、兵士に自決を強要する、まさに吐き気を催す『狂気』。(手榴弾で次々と自決する場面は、余りにも凄惨で見るに忍びない。隣で見ていたご婦人が面を伏せ、カンカチで口を覆っているのを何回も目撃した。)そして、自決せずに戻ってきた若い兵士を罵倒した挙句、成敗しようと軍刀を振りかざす中尉の『狂気』の顔、それを制止する指揮官の毅然とした態度に宿る『正気』。


その三

負傷し、捕虜となったアメリカの青年兵を優しく看取った日本軍の中佐。
その中佐は、アメリカの青年兵が憧れていたロサンゼルス・オリンピック馬術競技の「金メダリスト」であった。そして、翌日死んだこの青年の死に顔には、尊敬する「金メダリスト」に看取られて死んでいくことの安堵感が漂っていた。そこには、戦場であることを一瞬忘れさせる『正気』の世界があった。
一方、硫黄島送りになった若い特高は、生きて未来に希望を繋ごうと決意し、自決を拒否し投降の道を選ぶ。
しかし、投降した捕虜の見張りを負かされた若いアメリカの兵士が、見張りが面倒だから、煩わしいからと単にそれだけの理由で投降してきた特高の青年を射殺してしまうと言う、まさに戦場ならではの『狂気』。(日本の場合、主義・信条が『狂気』を発する源になっているのに対し、アメリカの場合『狂気』ですら「身勝手」という個人的理由から出ているという対比を面白いと感じた。)
捕虜として受け入れられ、これで生きていけると安堵した矢先、一転して銃口を向けられ、訳もわからず驚愕の表情を浮かべて死んでいった若者の顔は、同じ捕虜の死であってもアメリカ兵の平穏な死に顔と余りにも対照的である。

映画を見終わって、本映画が描く『狂気』の世界に『怖気』をふるうと同時に、この『狂気』を産み出した得体の知れない『化け物』に対し、激しい怒りと強い憤りを禁じえなかった。


今年91歳を迎える母には、先の戦争で「戦死」した弟がいる。
まだ遠くまで旅行することができたずっと以前、母はもう一人の弟と妹の3人で鹿児島の知覧に慰霊の旅に行った。

その時、母の胸に去来したものは何だったろう。
こと戦争に関して、母は黙して多くを語らない。
戦争を体験した人にとって、その受けた「傷」は決して癒えることはないのだろう。