いつの時代にも猛者がいる。
一番機に乗っていた大隊長、林三佐(少佐)が、降下中止の連絡を無視して「何だ、こんな風、俺について来い!」と真っ先に飛び出し、続いて隊員は次々と降下したとの事。
林大隊長は日本の空挺レンジャー及びアメリカへ留学、テキサスレンジャー(特殊部隊グリーンベレー)を主席で修了した強者である。
一番機に続き各中隊長もこれに続き指示し各機降下長が全員降下させた。
降下した隊員の1600名の内、重症の骨折は数名、軽症が30数名だった。
林大隊長は長身でスラリとした筋肉質の体格に細表の精悍な顔立ち鋭い眼光にハナヒゲと日本古来の武士の風格があった。
その後この7師団との対抗演習は2週間続き、山中を昼夜移動していろいろな場所で戦闘行為をした。
この戦闘で記憶に残っている思い出がある。
私は群3中隊第5分隊に所属していた。坪井中隊長より敵の装甲車を確保せよ、と命令を受けた。
我が第5分隊、谷口分隊長以下9名は真夜中出発、山を下り夜明け前3時敵の野営地発見、その時、弓野隊員から小声で、敵斥候発見と連絡で全員地面に伏せ第4歩伏前進。
しかし谷口分隊長だけ(射撃特級の名手だが耳が遠い)は気がつかず、中腰でドンドン前進50m先で何とか敵に見つからず、私達に指示した時周りには誰もいなく、分隊員は手前で角度を変えて次の戦闘隊形で北畠副分隊長命令で奇襲敵装甲車を分捕り確保した。
谷口分隊長は暗闇の為はぐれ奇襲後に合流した。
後で谷口分隊長が分隊員に誤りながらお互いに皆で大笑いした事を今でも思い出す。
北海道の山中の真夜中の気温は10月でもー5度以下にもなり、灯り等は敵に見つかるので火をおこし身体を温める事もできず、各人ポンチョ(携帯雨具)をかぶり携帯燃料で隠しながら凍えた手をこすり寒さとの戦いでもあった。
厳しい苦しい演習も無事終了、帰りはとても楽しく駅弁やお酒等自由で、札幌~函館~連絡船~東北本線で上野へ11月4日習志野に帰隊した。
一ヶ月後、林大隊長は責任をとって九州の対馬へ警備隊長として転属させられたが、数年後に又習志野第一空挺団に帰って来たと聞いている。
いま考えても私の青春の一齣で懐かしく思い出される。
*近い内又妻と北海道旅行をしたいと思っている。
一番機に乗っていた大隊長、林三佐(少佐)が、降下中止の連絡を無視して「何だ、こんな風、俺について来い!」と真っ先に飛び出し、続いて隊員は次々と降下したとの事。
林大隊長は日本の空挺レンジャー及びアメリカへ留学、テキサスレンジャー(特殊部隊グリーンベレー)を主席で修了した強者である。
一番機に続き各中隊長もこれに続き指示し各機降下長が全員降下させた。
降下した隊員の1600名の内、重症の骨折は数名、軽症が30数名だった。
林大隊長は長身でスラリとした筋肉質の体格に細表の精悍な顔立ち鋭い眼光にハナヒゲと日本古来の武士の風格があった。
その後この7師団との対抗演習は2週間続き、山中を昼夜移動していろいろな場所で戦闘行為をした。
この戦闘で記憶に残っている思い出がある。
私は群3中隊第5分隊に所属していた。坪井中隊長より敵の装甲車を確保せよ、と命令を受けた。
我が第5分隊、谷口分隊長以下9名は真夜中出発、山を下り夜明け前3時敵の野営地発見、その時、弓野隊員から小声で、敵斥候発見と連絡で全員地面に伏せ第4歩伏前進。
しかし谷口分隊長だけ(射撃特級の名手だが耳が遠い)は気がつかず、中腰でドンドン前進50m先で何とか敵に見つからず、私達に指示した時周りには誰もいなく、分隊員は手前で角度を変えて次の戦闘隊形で北畠副分隊長命令で奇襲敵装甲車を分捕り確保した。
谷口分隊長は暗闇の為はぐれ奇襲後に合流した。
後で谷口分隊長が分隊員に誤りながらお互いに皆で大笑いした事を今でも思い出す。
北海道の山中の真夜中の気温は10月でもー5度以下にもなり、灯り等は敵に見つかるので火をおこし身体を温める事もできず、各人ポンチョ(携帯雨具)をかぶり携帯燃料で隠しながら凍えた手をこすり寒さとの戦いでもあった。
厳しい苦しい演習も無事終了、帰りはとても楽しく駅弁やお酒等自由で、札幌~函館~連絡船~東北本線で上野へ11月4日習志野に帰隊した。
一ヶ月後、林大隊長は責任をとって九州の対馬へ警備隊長として転属させられたが、数年後に又習志野第一空挺団に帰って来たと聞いている。
いま考えても私の青春の一齣で懐かしく思い出される。
*近い内又妻と北海道旅行をしたいと思っている。