大空を見上げて

日頃感じていること

トルコ&日本人

2008-11-11 | Weblog
 もう少しトルコと日本ついて書いてみたい。
明治時代、日本とロシアは雲行きがだんだん怪しくなり、明治34年日露大戦争が勃発。
世界は大国ロシアと小国日本との戦争は無謀だと呆れながら見守った。
その頃オスマン帝国(現トルコ)は歴史的にロシアとイザコザが絶えず、一時ロシア帝国の支配下になったこともあり常に敵対関係にあった。
ロシアは全国力をあげて日本の10倍の兵力を日本との戦いにつぎ込んだ。
寅次郎はイスタンブールに滞在しながらトルコからロシアの情報を得て、ウイーンの日本大使館に伝え、本国日本に重要情報を打電し続けたとの事。
ロシアの艦隊が商船に偽装してボスポラス海峡を日本に向けて南下、この情報は寅太郎自身が打電したと記録に残っているそうだ。
弱肉強食の時代でインド、シンガポール、ビルマ、香港、マカオ等英仏の殖民地になり、日本もこの戦いに負ければロシアの植民地なる恐れがあった。
この頃ロシアはすでに中国全土を掌握しつつ、朝鮮半島に向かっていて、明治天皇は日本国、日本民族の為に日露戦争を避けられない戦いとして決断した。
承知の通り日本は大勝利をしたが、寅次郎の蔭の力が大であると思う。
もし負けていたら、この四季の豊かな魅力ある日本を世界の他国の反対があってもロシアは簡単には諦めず植民地にしていたと思う。

1994年イラク戦争が始まった時、日本人がかなりイラクにいたが、アメリカ側にいた事情で日本の飛行機は救出に行けなくて、日本政府はいろいろな国に協力を求めたが危険が伴う為難しく困惑していた。
この時トルコ政府が危険を顧みず三機の民間機を出して、日本人を無事羽田空港に送り届けたとの事だ。
明治時代、遭難し生き残ったトルコの船員を日本政府が送り届けた歴史や、山田寅次郎が日本国民から集めた寄付金をトルコの遭難で亡くなった遺族に届けた歴史等を、トルコの人達は学校でも習うらしく、親日家がとても多く、トルコ政府も歴史上の感謝の気持ちですぐ応じたとの事だ。
晩年、山田寅次郎は大正、昭和と経済界で活躍し、1948年(昭和23年)三島製紙会長を最後に91歳で波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。
    (写真:イスタンブールのボスポラス海峡!妻が写す)
        
コメント
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