
立春の今日、今年初めて外を走りました。
朝30分走って、夕方夕焼けを見ながら30分走って。
絵画館前がなかなか綺麗だったので、今日の写真はそれにしました!
昨日のブログです。
「ポピュラリティと生きやすさと」
昨日のブログは、マドモアゼル・愛さんの「ポピュラリティ」からヒントを得て書いたもの。テレフォン人生相談繋がり、というわけではないが、今日は長年この番組のパーソナリティーをつとめる加藤諦三さんの「非社会性」について話をしたいと思う。
社会には暗黙のルールとはっきりとしたルールがあり、この二つのうち暗黙のルールを破るのが「非社会性」、はっきりとしたルールを破るのが「反社会性」だとこの動画で理解した。反社は言わずもがな、なので早速「非社会性」について話をする。簡単に言えば、法律等には明記していないが「そういうもの」といった共通認識への否定が非社会性。暗黙の了解をコミュニティが共有することで、各々が生きやすくなるのだが、それを崩すものが非社会性というわけだ。
その非社会性について具体的な例を挙げるとすれば、食事中にトイレの話はしないとか、葬式に白いネクタイをしていかないとか、余命いくばくかのお嬢さんの誕生日に父親が「役にたつ」という理由で棺をプレゼントするとかだ。コミュニティ維持する上での暗黙の了解は法律で取り締まる筋のものではない。そうしたからと言って誰も罰することはないのだが、このような非社会的なことを繰り返していれば、そのコミュニティで住みにくくなるのは当然と言えば当然である。
家族という小さな集団でこの暗黙の了解を身につけつつ、コミュニティで暮らすための裏ルールを学ぶわけだが、その暗黙の裏ルールに気づくことができず、なぜ人が自分を忌み嫌うのかわからない、という人は確かに存在する。
ならどうしたらいいのか。それは自分本位ではなく相手本位で考えること、自利利他を学ぶこと、そんな感じだろうか。「自利利他」とは、「自らを生かし他者を生かす。他者を生かすことで自分も生きる。」といった仏教的な考えのことで、これらを学ぶことは生きやすさのヒントの一つになると思う。
「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ(エーリッヒ・フロム)」
ということで、長年テレフォン人生相談を聞き続けてきた一ファンとして、ポピュラリティと非社会性はこれまで色々と考えさせられてきた。特にどうしたら子どもが生きやすくなるか、子どもが無意識のうちに非社会性を発揮しないようにするために何ができるか、それらを子育てに応用してきたつもりだ。これらも思うところがあるので、いつかもう少し突っ込んだ考えをまとめてみようと思っている。