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FIELD MUSEUM REVIEW

FM128_S1 川切れ百年◇守山 大水口神社 2021/12/23 2022年10月30日

琵琶湖の南岸、野洲川河口にちかい左岸に、大水口神社(おおみなくちじんじゃ)がある。

野洲川を幸浜大橋でわたる国道477号が、守山市幸津川町の集落にむかう道とわかれる地点にある。橋の名は、川をはさむ幸津川町(さづかわちょう)と小浜町とをむすぶところに由来するとおもわれる。(写真1枚目、滋賀県守山市にて2021年12月23日撮影)

かきねの植えこみが刈りこまれている。しめなわも新しい。

木だちのなかに小さな本殿がかくれている。

燈籠の右にたつ「治水・愛水 野洲川の郷」碑。「川切れ百周年記念」とある。

裏面の刻字に、「平成八年九月八日」の日付と自治会長以下計8名の寄進者の名がある。平成八年(1996年)からちょうど百年前といえば、明治二十九年(1896年)。

この年、滋賀県に発生した大洪水「琵琶湖大水害」が碑文にいう「川切れ」である。9月12日、颱風と前線がもたらした「未曾有の大豪雨により、湖水位は1.43mに達し、浸水面積は約14800haに及んだ」。(*1)

琵琶湖があふれると、湖水の唯一の出口である瀬田川があふれ、ひいては下流の淀川に洪水をひきおこす。この年の「川切れ」をきっかけに明治三十三年から四十一年にかけて淀川の改良工事がおこなわれ、瀬田川に「南郷洗堰(なんごうあらいぜき)」を建設した。完成は明治三十八年(1905年)、日露戦争の時代である。

のちに瀬田川洗堰に役割をひきついだ南郷洗堰は、2002年(平成十四年)土木学会により「土木遺産」に認定されている。(*2)

また「川切れ」のあった明治二十九年(1896年)には、6月15日三陸沖に発生した地震(「明治三陸地震」)にともなう大規模な津波により、東北地方の太平洋岸「三陸沿岸を中心に死者約2万2千人、流出、全半壊家屋1万戸以上」という被害をうけた。(*3)

大水口神社の本殿。神社はいま改修後の野洲川の左岸にあるが、かつて二本の流れにわかれていた野洲川の南流と北流とのあいだの土地にあたる。このあたりは水路が縦横にはしり、各処に船着き場があったという。いまでは田んぼのなかである。

案内の高札によれば、祭神は「国方姫命[クニカタヒメノミコト]」すなわち「崇神[スジン]天皇の御子」であり、野洲川の水口(みなくち)を司どる水神であって、「天正年間(1570年頃)に勧請したと伝えられる」。地元では「小宮さん」で通っている。

また下新川神社例祭の御旅所でもある。下新川神社とは、幸津川町の集落のなかにある神社である。

大水口神社の門前にあるマンホールのふた。中央の円形は、それこそマンホールのふたのようにみえるが、どうやらホタルの光のようだ。(このマンホールは写真2枚目にも写っています)

滋賀県は「飛び出し坊や」の県である。「幸友会」が国道477号わきの歩道にたてたのは「飛び出し」なにであろうか。信号機のない横断歩道がかなり前方にある。よほど手まえから警告しないと間にあわないほど車の速度がはやい証拠であろう。


その横断歩道のあるところで左から直交する道に「477」の標識があり、上の写真にもかろうじて写っている。遠くの山なみは、琵琶湖のむこう、比叡の峰みねである。
(大井 剛)

(*1) 国土交通省 近畿地方整備局 琵琶湖河川事務所*ウェブサイト「琵琶湖と瀬田川洗堰」琵琶湖の洪水の歴史

(*2) 前掲註(*1)ウェブサイト「琵琶湖と瀬田川洗堰」瀬田川洗堰

(*3) 内閣府*ウェブサイト「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月 1896 明治三陸地震津波」
内閣府 > 内閣府の政策 > 防災情報のページ > 広報・啓発活動 > 災害史・事例集
 > 災害教訓の継承に関する専門調査会 > 報告書(1896 明治三陸地震津波)
この2005年(平成十七年)の報告書では、明治三陸地震津波により「我が国津波災害史上最大の被害が発生した」としるしている。2011年(平成二十三年)3月の津波を経験する以前であるから。

(更新記録: 2022年10月30日起稿、2022年11月9日公開)

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