阿波池田あるでないで・・・書家・たきぐち素水の風景

阿波池田の書道家「たきぐち素水」氏の風景を紹介します。阿波池田の街なかで、誰もが目にすることができる素水作品です。

第22話・・・蓮華寺さん

2008年12月17日 | Weblog
 

                                               

    
 池田の街を見下ろす南側の山の中腹に、新四国曼荼羅霊場第64番札所
「七宝山・蓮華寺」があります。
 池田の人たちは「蓮華寺さん」とか「上寺(うえでら)さん」と、敬意
を込めて寺の名を呼びます。


 蓮華寺は、奈良時代の724年に行基が開創した歴史のあるお寺です。


 池田の街は、周囲が山に囲まれていて、ちょっとそこらの山に登ってみ
ると、どこからでも街を見下ろせ、気持ちのよい景色を味わうことができ
ます。

 ここ蓮華寺もそうした場所の一つですが、静けさの中に凛とした空気が
張っていて、他とはまた違った空間を味わうことができる場所です。
 


      


   

 このお寺は、涔口先生の字をたくさん目にすることができます。

 山門手前のちょっとした広場にある「永代供養塔」や「歴代尊師の碑」。
 山門にある大きくりっぱな石柱に刻まれた文字。

 そして、山門をくぐって参道を歩くと、「歌碑協賛者の芳名碑」や「大
師像の台座」に刻まれた文字、「参道修復記念碑」に刻まれている文字を
見つけることができます。

                 



       



                  


                          





 参道を登りきると、きれいに整備された石庭が目に入ります。

 石庭の向こう側に池田の街が見下ろせ、その後ろには西山の遠景が広が
ります。何気ない風景ですが、池田育ちの私にとっては格別の景色です。

 この方丈は昭和55年に手を入れたと「方丈修復寄付者芳名碑」(=素
水氏の字)に記されています。

 

 石庭を眺めながら、蓮華寺第20代住職で、今は名誉住職をされている
石井教道さんに、お寺にある涔口先生の字が見える場所を教えていただき
ました。
 ここ蓮華寺には、涔口先生以外にもたくさんの方々の字があるからです。


                                         





 この名誉住職さん。

 とても雰囲気のある方で、無駄のないそして誠実な話しぶりにはいつも
感心させられます。
 
 話を伺うこちらも、不思議と純な気持ちになってしまう。そうした空間
を作り出してしまうパワーのようなものを感じます。

 


               


 
 


 ここ蓮華寺では、楷書で書かれた涔口先生の字を見ることできます。
 この「素水の素」のシリーズで紹介させていただく多くの字。
 特に漢字は、涔口先生独特の隷書体で書いているものが多いのですが、
蓮華寺の入口の石柱や方丈修復の芳名碑は楷書で書かれています。

 涔口先生のお話では、楷書でとの依頼があったとうかがっています。
 




                       






 方丈を後に、本堂へと階段を上ります。
 本堂へは、涔口先生の字が彫られた少し控えめの石柱が案内してくれま
す。
 
               



 この本堂のあるエリアでも、涔口先生の字を目にすることができます。
 「本尊御和讃の碑」です。

         


                        
 
 
 
 

 


 
 

 

第21話・・・細野のお大師さん

2008年11月12日 | Weblog
                  

 「細野のお大師さん(ほそのの おだいっさん)。」
 地元のお年寄りは、池田町シンヤマにある細野大師堂のことを親しみを込め
てこう呼びます。
 
 昭和58年3月末に発刊された池田町史によると、「天保元年(1830年)
伊予の岩屋寺になぞらえて、2間四方のお堂を建て、細野大師堂と名付けた。」
とあります。もともとは観音像を安置した小さなお堂が馬谷にあり、そこが手
狭なため、文政年間(1820年ころ)に真鍋屋、中村屋、川崎屋の三人が、
近くの細野山を開いて四国八十八か所を設け、仏像を安置することにしたのが
始まりだそうです。

 昭和14年頃までは、毎年21日に開かれる縁日の日になると、上野から細
野大師堂へ至る道は参拝者が長蛇の列をなし、臨時列車が運行されたり、露天
商が門前市を開くなど、それはそれはとても賑わっていました。


 ここは、涔口先生の書が至る所にあるような場所です。
 本堂正面に掲げられた額やその前に置かれている石の香炉の字。
 また、本堂の左から裏側を覗いてみると、涔口先生の字が刻まれた、りっぱ
な本堂改築記念碑と毘沙門天不動明王像奉納碑が置かれています。


          



                       



                      





 戦後は大師堂の維持管理に困難な時期もあったそうですが、その都度、熱
心な世話人や信者に支えられて2回にわたる大改修をし、現在は蓮華寺が管
理しています。今も、新山八十八か所として親しまれ、ほどよいハイキング
コースになっています。所要時間は約2時間。



 本堂から道路をはさんで向かい側の急な石段を上るとミニ88か所の1番
スタートとなります。        
 そこから細い山道を右手に進むと、道沿いに2番、3番と古い石仏が続き
ます。山道ですが、きちんと掃除がされていて気持ちの良いコースです。

                     

              



                     

第20話・・・三好高等学校の正門

2008年11月12日 | Weblog
 
                  

 
 三好市池田町州津にある三好高校。
 学校のホームページには、昭和21年2月に三好郡町村学校組合立徳島県
三好農林学校として認可を受け設立されたとあります。開校当時は農科と林
科でスタート。昭和23年に県立高校となり、主に農業と林業の分野に人材
を輩出してきました。
 平成8年からは商業課程が併設され、校名も徳島県立三好農林高等学校か
ら徳島県立三好高等学校へと改称し、現在は、生物資源類とビジネス類の2
コースで生徒数225人が学ぶ実業高校です。



                   
 

 校門には、涔口先生による「徳島県立三好高等学校」の文字が、そして、
農業高校らしく、校門右脇にはビニールハウスが見えます。学校の沿革に
よると昭和61年3月に校門が改築されていますから、その時に書かれた
ものと思われます。




 校門の左脇を覗いてみると、あちらこちらに卒業記念の植樹がされ、そ
のつど記念碑が設置されています。その中でも、「かえで」と記された標
石がひと際、目を引きます。涔口先生の字です。石に刻まれた先生のかな
文字は珍しいものと思います。

       




                  



 この日は、毎年11月に開かれる「楓祭」という学園祭で賑わっていま
した。お目当ては、生徒が作った農産品。特に鶏肉の燻製やハム、野菜の
直売コーナーは、販売開始時刻よりも前に長蛇の列ができ、瞬く間に売り
切れとなります。

         

第19話・・・素水の素「中央公民館にある比田井天来の書」

2008年11月06日 | Weblog
 
   

 
 三好市池田町にある中央公民館の大ホールの壁に飾られている大きな書。
 この書は、現代書道の父と言われる比田井天来(1872年~1939
年)の書です。ここに飾られる前は、池田小学校の講堂にありました。
 現在、その講堂は取り壊され、その跡地には小学校の体育館が建ってい
ます。当時、この書は、講堂正面に位置する舞台の脇の壁に飾られていま
した。どういった経緯で池田小学校に飾られたかは知るすべもありません
が、書の姿から、小学生の私は「これは涔口先生の書だ。」と決めつけて
いました。最近になって、涔口先生にお聞きすると、「あれは、比田井天
来の書じゃ。」と教えてくれました。


 涔口先生が交流を持っていた上田桑鳩氏は比田井天来氏の最初の弟子で
す。昭和12年。天来氏は桑鳩氏らとともに大日本書道院というグループ
を作ります。大日本書道院は日本の書道界の土台を作ったとされる3つの
団体の一つで、その中でも最も革新派路線の団体とされています。
 
 書の世界に芸術書という分野を築いた人とも言われている天来氏。涔口
先生の所属する奎星会はこの流れを引き継ぐ団体で、上田桑鳩氏が中心に
なって昭和26年に結成されます。

第18話・・・素水の素「アートジャパン誌での紹介」

2008年10月29日 | Weblog
 涔口先生の書について、中原一耀氏や宇野雪村氏の言葉の他に、涔口先生の
作品を紹介している美術誌「ART MIND」(株式会社 ジャパンアート社発行)
に掲載された内容を紹介させていただきます。



◆ART MIND(2003年11月号)

                 


 『第55回毎日書道展に出品された涔口素水の「和光同塵」は有名な老子の
  言葉で、毎日展の漢字部で20字以下の部門に出品されている。書体は篆
  書で、線質は羊毛に濃墨を使い、明るく粘る現代的な特色をよく表してい
  る。その特色とは、線の隅々を正確に同一の太さで書く伝統的な手法では
  なく、作家の気持ちで筆の開閉を素直に使い、太い細いが自由に表れる。
  さらに止めるところや撥ねるところは、木簡などに見る率意の自然な姿が
  表れて、きちんと止めるのではなく、吐き出すような気儘さもある。こう
  した気持ちの赴くままの表現が、横画を真横に書くという篆書体の基本ル
  ールを守りながら組み立てられている。見方を変えて白を見ると、白の空
  き具合が一様に整い、分間布白にも多少の自由な表現が参加している。も
  ともと前衛書道を専門にした作家だけに、この古典的な姿の現代版は、伝
  統の刷新にもなっている。前衛のメッカ奎星会のなかでは穏当な姿となろ
  う。』

                           小野寺 啓治






◆ART MIND(2004年11月号)

   
                   


 『涔口素水が所属している毎日書道展の漢字部門は、一口に漢字と呼んでい
 ても字数の違いで二つの部門に別れ、漢字一類が文字数21字以上、漢字二
 類が文字数3字から20字までの作品で分けられ、この他に文字数1字か2
 字の大字書部となる。この作品は漢字二類に属し、書風は中国漢代以後に登
 場する木簡に書かれた書風を現代風に再生し、書体の移行期に表れた自由で
 のびのびとする表現が制作の背景にある。文字には一ヶ所だけ右の収筆を撥
 ねる波磔を強調し、これで隷書の飾りとする。これは文字に一字ずつ存在感
 を示す威厳とも取れ、また美の誇張をここに集約して見せ場とする。「年豊
 人楽」は、人に波磔がないので、極太の線を表現して気持ちの解放と安定を
 示す。画数の多い文字は、極力同一の太さの線で構成をして、文字の形を明
 確に示し、逆に画数の少ない文字は太い線や撥ねを大胆に取り入れている。
 上二文字と下二文字が対照になる表現美もある。』

                           小野寺 啓治

第17話・・・素水の素 「中国の古い木簡の字が好きじゃ。粘りのある濃い墨と筆は墨の含みの多いもの。」

2008年10月29日 | Weblog
 涔口先生が中原一耀氏や宇野雪村氏と交流を深めていた昭和40年の頃。
 先生が開いていた池田町南新町の書道塾には、三好郡内から通うたくさ
んの子どたちで賑わっていました。今思うと、黙々と書に励むというより、
顔や足にまで墨を摺りつけた子供たちの、それこそ「ギャーギャー、キャ
ーキャー」といった類の歓声で占拠されていたといったほうがふさわしい
様な雰囲気だったと思います。

 部屋に立ちこめた墨の香り。
 半紙のあの独特の匂い。
 そして、墨を磨り続ける電気仕掛けの機械の音。

 これらの匂いや音が、書道塾らしさを演出していましたが、
そういったものよりも、何ともいえぬ賑やかな空間の中に居られることが、
当時の子供たちの楽しみだったような気がします。

 それでも、ここの書道塾の子供たちは数々の賞を獲得していました。
 特に、習字のジャンルよりも、前衛書の部類での受賞は突出していた
ように思います。

                    


 書道塾の壁には、大きなススキの穂で作った筆が吊るしてあったり、障
子紙を張り替えるときに使うような平らな刷毛の形で、その毛足を長くし
た筆もありました。
 壁に吊るされた自分の背丈よりも大きなススキの筆を見て「先生。これ
で書くン。」と目を丸くして尋ねる子供たち。磨られた墨の中にドボドボ
とビールを注いだり、ニカワを混ぜ込んだりしていた先生の姿を興味津々
で眺めていました。

 涔口先生は、今と同じように、子供たちが帰った後のその部屋で、一人、
創作に没頭していたのでしょう。



 「先生。書家として生きていこうと思われた切っ掛けは、何かあるので
  すか。」と問うと、

 『特にないなあ。』と素っ気ない。



 「そしたら、先生は小さい時分から字がうまかったのですか。」

 『池田中学校の同級生で、生田先生という英語の先生がおってな、
  以前にタウン誌の取材で来てくれたときに、お前がまさか書道の
  先生になるとは思わなんだと言われたことがある。』

 それほど上手な部類では無かったという謙遜を含んだ言い回しで答えた。

                 

 シャイな方なので、こちらの質問になかなか乗ってこない。
 作風について尋ねると、

 『・・・特に無いなア。

  表現したいものは僕には無いんじゃ。

  人の言われるままに書いてきた。好奇心が特に強いわけでもない。』


 「そしたら、先生の好きな字は?」

 『字は中国の古い木簡の字が好きじゃ。

  ほなけん、作者の名前もない。誰が書いたか判らんやっちゃ。

  家に持っとる本には載っとる。』


 『墨は濃いほうが好きじゃな。

  ニカワを混ぜて使っている。

  ニカワを入れると墨が長持ちするし、濃い部分と薄い部分がよく混ざる。

  僕は、滲みの少ないほうが好きで、粘りのある墨が好きじゃな。

  ニカワの混ぜ方は、人それぞれ。』


 確かに、涔口先生の作品には墨の色が濃くて、滲みの少ないものが多い。
濃い墨で、かすれたシャープな線が素水流といえる。

 『紙は中国の紙を使っている。色は白いほうが好き。

  筆は羊毛の長いもの。それも太いほうがいい。

  墨の含みが多いけんな。』


 ススキの穂や軍鶏の羽を使った筆で書いている作品もある。ススキの筆や
軍鶏の筆は自分で作ったという。私のような素人から見れば、結構チャレン
ジしてきたと思う。決して、表現したいものが無いといった部類には思えな
い。

 『歳を取ったら、普通の筆に戻ってくる。

  50年書いても、60年書いても飽き足らない。

  書くほどに解からない。

  今は、体が不自由になって、大きなものが書けんようになった。

  ほなけん、余計に書きたいという気持ちが強くなった。

  今、思えば、40代が一番充実していたと思う。

  あの頃は、思うような書が書けた。』




第16話 素水の素・・・「上田桑鳩先生と宇野雪村先生」

2008年10月28日 | Weblog
・・・・中原一耀氏の祝辞から


       「上田桑鶴が蛇紋石を探したのは、昭和36年夏の頃である。
  
        その時から3年間、伊予銅山川・金砂湖・土佐大杉・久寿軒と、

        くまなく探石されたが、それを先導し助けたのが素水君である。

        素水君の書ですが、とても直截的で無垢で純であります。

        見る人の心奥底にスパーッと触れてくるのです。

        それは誰にもない独特の魅力なのですが、これは実はあの桑鳩

        先生が吉野川探石にみせた美というもののとらえ方や、感動のあ

        り方を自ら学んだからであろう。」 


  
        「君には雪村先生あり、

               前衛書ならでは見られない、

                     凝集と瞬発の美しい書表現。」  

                   


 この中原先生の祝辞は、涔口先生の個展のときに贈られた言葉ですが、
涔口先生が上田桑鳩氏や宇野雪村氏との交流の中で、少なからず桑鳩氏
の影響を受けたことを裏付ける言葉であり、宇野氏の存在を表す言葉と
思います。

      そして、師と仰ぐ宇野雪村氏は

        「君の書からは ふるさと池田の自然が思い出される。」

              と、涔口先生のことを話されています。



                      



 「上田桑鳩先生が石を探しに来たとき、一緒に来たのが宇野雪村先生。

  年は中原先生と同じくらいで、僕より10歳くらい上だったと思う。

  桑鳩先生を頼って、東京で活躍していた。

  中原先生が連れてくるっていうんで、山下旅館にお願いしてな。

  この人は、前衛書道の御大将じゃ。

  桑鳩先生はざっくばらんな人で、雪村先生はインテリっぽい人だった。」

           と、涔口先生は当時のことを振り返ってこう話された。


   



  少し、話が前後しますが、桑鳩氏と宇野氏のことに触れさせていた
 だく。
  涔口先生が、宇野先生の指導を受けるようになったのは、先生の年
 表を見ると、昭和32年からとなっています。この年は、涔口先生が
 日展で初入選した年でありますが、それより前の時期の話です。

  日本の書道界は第2次世界大戦後に爆発的な開花と前進があったと
 言われています。それまでは、書は身だしなみとして、教養を身につ
 けるための対象であるというのが社会的な認識であったのですが、戦
 後になると、芸術的創造の対象として評価されるようになります。

  昭和23年には、毎日新聞社が毎日書道展を発足。同時に、この年、
 第4回日展が書を第5科として加えます。マスコミによる書道展の開
 始は、書道の社会的地位の高まりを世に広め、さらに、日展への参加
 は日本の美術界の一領域として公認されたことを意味し、飛躍的に社
 会的な地位が高まったのです。


  この高まりの中で、時代を反映した現代書と伝統書の対立が顕著に
 なり、書道界を揺るがす騒動が起きます。
  この騒動は、大まかに言えば、次のようなものです。
  昭和28年の第9回の日展において、大澤雅休氏の作品が陳列を拒
 否されます。次いで、昭和30年の第11回日展では、前衛派の上田
 桑鳩氏の作品を巡って紛糾し、上田氏は日展を脱退してしまいます。
  翌31年には宇野雪村氏が脱退し、日展における前衛派が消滅して
 しまうのです。
  一方、毎日展は、昭和26年の第3回毎日書道展から前衛書を独立
 し、上田桑鳩氏や宇野雪村氏の牽引で現代書を積極的に取り入れます。



       



  さて、涔口先生の話に戻ります。

  涔口先生が上田桑鳩氏の主宰する『奎星会』の同人になったのは昭
 和41年のことです。それまでの約10年間は、漢字部門の書家とし
 て活動しています。昭和41年の毎日展の秀作賞獲得が前衛部門での
 初めての受賞となります。


  「騒動で、漢字の多くの人が日展系の読売展に流れた。

   毎日展では漢字部門の人が少なかったので・・・。」

  とこの頃のことを多くは語りませんが、日展に入選した昭和32年
 から約10年間。中原氏、上田氏、宇野氏との交流で、漢字部門の書
 家として活動する自分の中に、新しいものが湧き出してきたのだと思
 われます。

  この頃のことを、

  「人のまねをしたくない。自分流を貫きたい。

   漢字も好きだけど、既成のものでなく、自分流を出したかった。」

                         と話されました。


 
 
  


  




第15話 素水の素「中原一耀先生」

2008年10月27日 | Weblog
 「さて、素水君の書ですが、とても直かん的で無垢で純であります。見る人
 の心奥底にスパーっと触れてくるのです。」・・・(中原一耀氏)



  平成9年12月。涔口先生は古希を記念して、第2回目の個展を池田町シ
 マの四電プラザで開催しました。このときに発刊した書作集の巻頭を飾った
 中原一耀氏の言葉です。書の専門の方が涔口先生の書を評した言葉で、涔口
 先生を表現する言葉としてとても大切にしたい一言ですが、私は、これこそ
 まさに素水の素ではないかと思います。


  この中原一耀先生。毎日書道展名誉会員で奎星会(けいせいかい)顧問。
 涔口先生の師匠であり、また、兄弟子のような方で、書家としての生き方に
 大きく影響を与えた方です。琴平高校で教鞭をとられ、香川県の書道界をけ
 ん引されてきました。涔口先生が日本を代表する書家の上田双鳩氏や宇野雪
 村氏との交流へと広がったのも、この中原先生との関係が始まりだそうです。


  古希展の書作集の年譜に「昭和27年 中原一耀先生の指導を受く」とあ
 ります。涔口先生曰く「池田小学校に赴任した時分、西井春夫校長の友人で、
 中原先生をご存じの方がいて、その方に紹介いただいた。」


       「家に中原先生が初めて来たとき。

        ウワァーと思うた。

        真冬の雪の中、タンゼン姿で、足元は素足に革靴でよ。

        ほんで、大きな声で『涔口おるか』って・・・。」


 涔口先生の奥さんが当時の様子を話してくれました。
 中原先生は、かなり強烈な印象で涔口家の前に登場したようです。



       
           「三豊市三野町にある温泉施設・大師の湯」



 
  中原先生の故郷である香川県三豊市三野町。
  この町の「ふれあいパーク みの」という道の駅を訪ねてきました。
  ちょうど、学生時代からの友人がこの町の生まれで、今もこの町で働いて
 います。
 
     「書道家で、中原先生って聞いたことあるかい?」と尋ねると
     「その先生なら、うちの町の人だよ。」と言われ、さっそく案
      内していただいた次第です。

  この日は、あいにくの雨模様でしたが、ここに併設されている「いやだに
 温泉・大師の湯」という健康温泉施設が賑わっていました。
  この施設の玄関左脇に、中原先生の字で『大師の湯 いやだに温泉』と彫
 りこまれた大きな石碑が飾られています。


                       

             「温泉施設の玄関脇にある中原先生の揮毫による碑」
    


  
  
    

  「中国との交流を記念した碑の裏には中原先生の紹介文がある」


  また、玄関右脇を見てみると、中国の西安との文化交流を記念して飾られ
 ている交流の碑がありました。裏には、中原先生による紹介文が見えます。
 書を追求する活動の中で、中原先生の交流の広さがうかがえます。


  温泉施設の館内を覗いてみると、フロントやロビーに中原先生の書が大切
 に飾られています。2000年以上も前の金文という書体で書かれた作品な
 ど、どれも特徴のある書風で書かれていますが、涔口先生の奥さんが話され
 る様に、かなり豪快で洒脱な方だったのではと想像されます。



「フロントには中原先生の書が飾られています」



               


   
 
    「ロビーやホールにも中原先生の作品がありました。」

                


     肩に変な力が入っていない自然体。
     そんな中原先生の人物像を想像させてくれる作品が、
     この施設を訪れる方たちの目を楽しませてくれます。
 
      こうした形で、地元の作家を大切にされている。
     三野町の皆さんの温かさを見せていただいた一日でした。
 

第14話 素水の素・・・足跡

2008年09月22日 | Weblog
 
       「涔口先生の筆。一番手前は軍鶏の羽で作った筆。」 


 涔口先生の足跡を年表で追ってみます。

 特に興味深いのは、涔口先生はこれまで4人の方に師事し、指導を受けら
れています。
 この4人の方たちは、素水の素を磨いていく中で、重要な影響を与えてき
たに違いありません。
最初に名前が出てくるのが、新京師範学校時代(昭和19年)の瀧口龍水
氏。そして、徳島師範学校(昭和21年から23年)時代の田中双鶴氏。昭
和27年に出会った中原一耀氏。それから、中原先生との交流の中で、昭和
32年に最終的な指導を受けることになる宇野雪村氏と出会います。
 
 徳島師範学校時代に指導を受けた田中双鶴氏は、徳島を代表する書家で、
徳島大学や四国女子大学の教授を務め、数々の書作展の審査員を歴任された
方です。また、その後に指導を受けることになる宇野雪村氏や中原一耀氏は、
戦後の日本の前衛書を引っ張ってこられた、これもまた著名な書道家です。


 昭和32年。この年は涔口先生にとって重要な年だったといえます。

 年譜によると、昭和32年に涔口先生は日展に初入選します。書道家とし
ての第1歩を踏み出した記念すべき年です。そして、書道塾を開き、池田の
子供たちに書を教え始めたのもこの年です。

 
 「日展への出品は、双鶴先生に勧められて出した。

  入選は、お情けでくれたんじゃ。

         入選作は漢字。

             漢詩を行書で書いた。」(素水氏談)



 あれ?前衛と違う・・・。

 中原先生の指導を受けるのが昭和27年ということですから、この時期の
約5年間は、先生の中で揺れ動くというか、自分の進む方向を探していたよ
うな時期だったようです。


   「騒動で、漢字の多くの作家は日展系の読売展に流れた。

    毎日展での漢字部門の人が少なかったので・・・。」


 というのが毎日展参加の理由ですが、
 先生は多くを語りません。
 この時期、先生の中には新しい自分を求めるものがあったようです。しか
し、田中双鶴先生との関係もあった。そうした思いが、「お情けでくれた。」
との言葉にあるのかもしれません。


     「人のまねをしたくない。
      
      自分流を貫きたい。

      漢字も好きだけど、

      既成のものではなく自分流を出したかった。」

                  とこの頃の心情を話してくれました。


 昭和32年の日展初入選の年。この年に宇野雪村先生の指導を受けます。
 私は、この出会いこそ、書家・涔口素水のスタートのような気がします。

 昭和41年、上田桑鳩氏が主宰する奎星会の同人になります。この年の毎
日展で秀作賞を獲得。前衛部門での初めての受賞です。それまでの約10年
間は、漢字部門の書家として活動しています。


 

 大正15年12月10日 徳島県三好郡辻町に生まれる

 昭和14年 3月 辻町尋常高等小学校卒業

 昭和19年 3月 徳島県立池田中学校卒業(5年制)

 昭和19年 4月 新京師範学校入学(現・長春)
瀧口龍水先生の指導を受ける

 昭和20年 8月 敗戦のため休学 現地抑留

 昭和21年 9月 徳島師範学校本科転入学

 昭和23年 3月 徳島師範学校本科卒業
               田中双鶴先生の指導を受ける

 昭和23年 4月      三好郡内小中学校にて勤務

 昭和27年         中原一耀先生(琴平高校)の指導を受ける

 昭和28年         習字の会開設(事務局担当)

 昭和32年         日展入選
               書道塾を始める
               墓字揮毫
               宇野雪村先生の指導を受ける

 昭和40年         奎星展無鑑査

 昭和41年 毎日展秀作賞
               奎星会同人

 昭和42年         毎日展委嘱(前衛)

 昭和45年         毎日展会員

 昭和49年         仏教大学通信教育部国文科卒業
                  (高校書道2級免許取得)
               訪中

 昭和51年         訪中

 昭和56年         奎星展同人特別賞

 昭和58年         毎日展審査会員(漢字)

 昭和62年         宇野雪村書作展
               訪中

 昭和62年 3月      退職

 平成 元年         訪中  母校訪問

 平成 7年 1月      第1回個展

 平成 9年12月      第2回個展(古希展)

 
 

第13話 「南條歌美の歌碑と白地城」

2008年08月30日 | Weblog
 


 昭和16年に南條歌美が作詞、倉若晴生が作曲し、田端義夫が歌
った「梅と兵隊」。この歌碑が『南條歌美歌謡碑』として池田町白
地の「あわの抄」という宿泊施設の入口にあります。平成6年に池
田町と阿波池田ライオンズクラブにより建立されました。
 
 書は涔口素水です。
 
 珍しいことに、歌の題字の部分は田端義夫さんが書かれたもので
あるとこの碑には記されています。







(裏面には楽譜も記されています。)




 このあたりの色々な記念碑は、地元産の青石や御影石を使うのが
多いのですが、この碑はピンク色がかった石を使っています。
 歌碑の横に並んで置かれている「歌美頌」によると、南條歌美は
明治32年にこの池田町白地で生まれています。本名は富永ヨシエ。
女流作詞家の先駆けとして昭和前期に100曲以上の戦時歌謡や舞
踊小唄の名作を作詞。その代表作である「梅と兵隊」は今も歌い継
がれているとあります。

 この場所は以前、郵政のかんぽの宿があったところで、平成18
年12月から「あわの抄」という民間の宿泊施設にリニューアルし
ました。

 南條歌美からは話が離れますが、ここは池田の歴史の中では外せ
ない場所です。この地にその昔、白地城がありました。
 あわの抄の西隣に、池田第1中学校の遠隔地の生徒のための友愛
寮という寮(現在は廃寮となって、書庫として使われている。)が
ありましたが、その横の土地に大西神社が祭られています。
 大きな石に「白地大西城跡」と刻まれた碑が神社の境内の木々の
中に納まっています。


(吉野川対岸から見た白地城跡。中腹にある白い建物が現在の「あわの抄」)




(大西神社の右側に白地城跡を示す石碑が建っている。)



 白地城は、1335年に田井庄(池田を中心とした四国中央部)
の庄司であった近藤京帝が築城します。阿波の最西端であることか
らこの地を「大西郷(最も西の場所)」と改め、自らも近藤から大
西に改姓し、土着の武士となります。
 
 白地と書いて「ハクチ」と読みます。司馬遼太郎さんが「街道を
ゆく」の阿波紀行の編で、日本の地名には珍しい漢音の地名である
ことを紹介しています。また、長宗我部元親を書いた「夏草の賦」
でも、司馬さんはこの地名に想像を巡らせています。中国古代の兵
法書『孫子』にでてくる衢地(くち)という軍事戦略上の地形が、
まさにここ白地であり、戦国時代には軍事戦略上、重要なポイント
となった場所であると。
 さらに、司馬さんの説明によると、ここを重要視した戦国大名・
長宗我部元親は天正3年(1575年)に侵攻し、この地を四国統
一の拠点とします。時の城主の大西覚養は、一度は元親軍を退けま
すが、天正5年に讃岐へ退却します。元親はこれを契機に、白地城
を四国最大規模の城に大改修し、四国統一の本営としました。

 この城を足がかりに、阿波全土を手中に収めた元親は讃岐へと兵
を進め、ほぼ四国を制圧します。しかし、それも束の間のことでし
た。本能寺の変の後に明智光秀を破り、天下統一をはかる豊臣秀吉
によって攻められ、元親はこの白地城でついに降伏します。
 天正13年(1585年)、秀吉の四国平定により白地城は廃城
となりました。
 元親が侵攻してからわずか10年のことでした。