【司会者】:放下要先從執著開始。
放下はまず執着から始めるのですね。
【浄空法師】:從執著,然後再放分別。
執着からです。そのあと更に分別を手放します。
【司会者】:每天加一分執著,那就是往惡道靠近了一步。
毎日少しずつ執着を増やしていれば、それは悪道に一歩近づいたということですね。
【浄空法師】:沒錯,那你的煩惱就長。
その通りです。それではあなたの煩悩は増長します。
【司会者】:我們平時交往很多朋友、家親眷屬,我們一看家人,自己的親人他執著很害,就知道他將來會很苦,能這樣說嗎?
私たちは平素友人や家族親戚と交わります。私たちは家の人や、自分の家族がひどく執着しているのを見たら、その人は将来苦しむことが分かります。そのように言えるでしょうか?
【浄空法師】:是,是這樣的。
そうです。そういうことです。
【司会者】:那應該勸他就是放下執著,把他那個脾氣改一改。
それではその人に執着を放下して、性癖を改めるように勧めなければなりません。
【浄空法師】:對,不錯。而且多幫助別人,照顧別人就是真正照顧自己,幫助別人就是真正幫助自己。
そうです。その通りです。しかも他人を多く助けること、他人の面倒を見ることは、本当に自分の面倒を見ることです。人を助けることは、本当に自分を助けることになります。
【司会者】:您知道現在人都很喜歡辯論,一定是你錯了,我對了。
老法師もご存知のように、今の人は議論すること好みます。必ず人に間違いがあり、自分は正しいのだと。
【浄空法師】:那就好了,你對了就你對。
それはそれで良いのです。あなたが正しいなら、それで良いのです。
【司会者】:我們不執著,讓糊塗人執著。
私たちは執着しません。愚かな人に執着させておきます。
【浄空法師】:對,佛菩薩從來不會跟人辯論的。
そうです。仏菩薩は人と議論したことはありません。
【司会者】:凡是爭的都是執著的表現。那西方教競爭,就是給大家教加這個,本來我這個習氣不那麼大,那就教我這樣,這個東西放在眼前確實什麼都看不見。
およそ争いはすべて執着の現れです。西洋では競争を教えていますが、それは皆に執着を増やすように教えています。それまでそれほど深い習気(じっけ、身にしみついた悪癖)はなかったのに、そのように教えられてしまいます。これが目の前にあるので何も見えなくなります。
【浄空法師】:對,沒錯。他是不斷的長分別執著,這是西方人。所以中國傳統跟印度它是減少,為道、為學,老子都講「為道日損」,就是你天天要減少,減少妄想分別執著,這是學道。
そうです。その通りです。その人は絶え間なく分別・執着を増長させています。これは西洋人です。中国の伝統とインドのそれは減らしていきます。道を修め、学問を修めることを、老子は「為道日損」(道を為せば日に損す)【注】と説いています。つまり日々減らしていきます。妄想・分別・執着を減らします。これが道を学ぶということです。
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【注】 「為学日益,為道日損」(学を為せば日に益し、道を為せば日に損す)
学問を修めれば毎日知識が増えてゆくが、道を修めれば毎日それらは減ってゆくものである。(老子『道徳経』第四十八章)
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【司会者】:這三樣東西戴在眼前,就是戴在我們自性前面的時候,什麼作用都出現不了。
この三つが目の前を覆っていれば、つまり私たちの自性の前を覆っていれば、何の作用も発揮されません。
【浄空法師】:但是這個東西你要想清楚,它有沒有障礙自性?
しかしこれははっきりと理解しておかなければなりません。それは自性の障碍になるでしょうか?
【司会者】:我還能看得見倒是,我這裡面的眼睛還管用。
自分はまずまず見ることができます。自分の目はまだ役に立ちます。
【浄空法師】:它有沒有障礙?沒有障礙!有沒有障礙外面境界?也沒有障礙,真的一點障礙沒有。你以為有,它就起作用;你知道它沒有,它就不起作用。
それは障碍になるでしょうか?障碍にはなりません!外の環境に障碍になるでしょうか?それも障碍にはなりません。本当にまったく障碍はありません。あなたがあると思えば、それは作用します。あなたがそれはないと理解していれば、それは作用しません。
【司会者】:確實,眼睛在後面還是眼睛,什麼都看不到,放下就可以。
確かに、(三色のカラー・シートの)後ろ側には何も見えません。放下すれば良いのですね。
【浄空法師】:是!不過就是看錯了,看到這是紅色的、那是色的,那你看錯了,它本來什麼顏色都沒有。
そうです!しかし見誤ります。これは赤、それは緑に見えて、あなたは見誤ります。本来は何の色もないのです。
【司会者】:請教您,這三樣東西是從哪來的?
お教え頂きたいのですが、この三つはどこから来るのでしょうか?
【浄空法師】:從妄想來的,這三樣東西從妄想來的。
妄想から来るものです。この三つは妄想から来ます。
【司会者】:從這個來的,然後生出來分別,最後又執著?人人都有?都把它放下,就自在了。
ここから来たものが、その後分別を生み出し、最後は執着でしょうか?すべてそれらを放下すれば、自在になる。
【浄空法師】:對,本來沒有,你自以為有,它就有;你知道它沒有,它真的沒有。所以佛法講到科學,可以說現在科學裡面許多解決不了的問題,在佛法裡全解決了,哲學裡頭也是如此。
そうです。本来はありません。あなたが自分であると思い込むと、それはあるのです。それがないことを理解すれば、それは本当にありません。ですから仏法は科学を説いています。現代科学が解決できない諸問題を、仏法の中では全部解決していると言って良いでしょう。哲学の中においてもそうです。
【司会者】:用這個方法,社會問題也能解決?
この方法を用いれば、社会問題はすべて解決できるでしょうか?
【浄空法師】:都能解決。
すべて解決できます。
【司会者】:很多人看到佛像邊上有您的題字,左邊寫著「看破放下」就是這個意思?把這個東西看破放下就好辦了,就沒災難了。
多くの人は仏像の隣に老法師の題字を見ています。左側には「看破 放下」と書かれていますが、これがその意味なのでしょうか?これを看破、放下すれば良いのですね。災難もなくなります。
【浄空法師】:對,要放下。你知道這個東西是假的,不是真的,然後你才真能看破放下,你才能禁得起我們今天講的打擊,你才能承受得了。為什麼說這嚴重打擊,在我們身上它等於零,這問題是什麼?你有分別執著,你就接受了,那你就苦不堪言;你沒有分別執著,他的一拳打空了。
そうです。放下しなければなりません。あなたはこれらに実体がなく、真実ではないことを知り、ようやく本当に看破、放下することができます。ようやく今日言うところの打撃に耐え抜くことができ、堪えることができます。なぜそれを深刻な打撃というのでしょうか。私たちの身にとってそれはゼロに等しいものです。この問題は何でしょう?あなたに分別・執着があれば、あなたは受け入れることになり、その苦しみは言うに堪えません。あなたに分別・執着がなければ、人の拳は空を切るだけです。
【司会者】:不受。
受けつけない。
【浄空法師】:沒受,不錯。為什麼?我這身體是假的,不但身是假的,神識也是假的,只有一個是真的,真的東西它不是精神、它也不是物質。所以物質打擊,打擊不倒他;精神打擊,也打擊不倒他。
受けつけません。その通りです。なぜでしょう?自分の身体は偽りだからです。身体が偽りと言うだけでなく、神識(意識の働き、霊魂)も偽りです。ただ一つだけが真実です。真実は精神ではなく、物質でもありません。ですから物質的な打撃は、その人に届きません。精神的な打撃もまた、その人に届きません。
【司会者】:這兩樣東西都是假的。
この二つは偽りなのですね。
【浄空法師】:對,不錯。
そうです。その通りです。
【司会者】:剛才我們講這是執著,這是您老做這麼一個教學的道具,這個代表的是執著,那好了,這藍色是分別,這分別在生活當中,觀眾就想問這是什麼意思?它有什麼表現嗎?
先ほど私たちは執着についてお話ししました。これは老法師が作られた一つの教学の道具です。この(赤い)シートは執着を表します。この青いシートは分別です。この分別は生活において、どのような意味なのでしょうか?それはどのように現れるのでしょうか?
【浄空法師】:分別現象就非常的廣泛。譬如說我們在一個人上,這是鼻子、這是眼睛、這是耳朵就是分別。
分別の現象は非常に広範囲です。例えば一人の人間であれば、これは鼻、これは目、これは耳といった分別があります。
【司会者】:這就是分別?
これが分別なのですか?
【浄空法師】:怎麼不分別?你不分別,它就是一樣的。
どうすれば分別しないのでしょう?分別しないと、それは同じものになります。
【司会者】:都成眼睛了。
すべて目になります。
【浄空法師】:你不是天天在分別嗎?這是張三、那是李四,這個人姓張、那個人姓趙,不都是在分別嗎?老子講得好,「道可道,非常道,名可名,非常名」,你能夠想得出來的,你能夠說得出來的,全落在分別裡頭。如果叫你不分別、不執著,你道一句來,禪宗常用這個方法,沒話好說了。我說你都有分別,說跟不說這是兩對立的,所以離開分別執著,你的心是清淨的,沒有一個雜念,你有雜念全是分別執著。
あなたは毎日分別しているでしょう?これは張三さん、それは李四さん、この人は張さん、あの人は趙さんと、すべて分別していますね?老子は上手に説いています。「道可道,非常道,名可名,非常名」(道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず)。あなたが考えることができるもの、話すことができるものは、すべて分別の中に落ちています。もし分別せず、執着もしないなら、ひと言で表します。禅宗ではよくこの方法を用います。適切な言葉がないのです。あなたに分別があれば、話すか話さないかは二つの対立です。ですから分別・執着を離れると、あなたの心は清浄になり、何一つ雑念はなくなります。あなたに雑念があるなら、すべて分別・執着です。
【司会者】:譬如說我們普通的老百姓,打個比方。譬如說我們吃飯,這個好吃,那個不好吃;我最喜歡吃這個,不喜歡吃那個。
私たち普通の庶民に例えてみます。例えば食事をして、これは美味しい、あれはまずい。私はこれが一番好きで、それは好きではない。
【浄空法師】:對,你先分別,後頭就起了執著,我要吃好吃的,不好吃的我不吃它,那就是執著了。
そうです。あなたはまず分別し、後から執着を起こします。美味しいものを食べて、まずいものは食べない。それが執着です。
【司会者】:它是從分別生出來,這個紅色的。
それ(執着)は分別から生じるのですね。この赤いシートです。
【浄空法師】:對,所以執著是最嚴重的。
そうです。ですから執着は最も深刻です。
【司会者】:它是從分別建立起來的。
それは分別から起こったものですね。
【浄空法師】:對,沒錯。
そうです。その通りです。
【司会者】:這是好人、那是壞人,這是我們家的人、那是你們家的人,都是分別?
この人は良い人、あの人は悪い人。これは自分の家の人、あれは他人の家の人、すべて分別ですね。
【浄空法師】:對,沒錯,都是分別。從分別再起執著,執著就造業了,分別的業輕,執著的業就重了。
そうです。その通りです。すべて分別です。分別から執着が起こります。執着は業を造ります。分別の業は軽いですが、執着の業は重いです。
【司会者】:剛才按照佛法所教導的方法,把執著放下,人怎麼樣?
先ほど仏法に照らしてお教え頂いた方法で、執着を放下すると、人はどうなるのでしょうか?
【浄空法師】:六道就沒有了。
六道がなくなります。
【司会者】:六道輪迴就沒有了?
六道輪廻がなくなるのですか?
【浄空法師】:就沒有了。
なくなります。
【司会者】:就不受這個罪了?
この罪を受けなくなるのですか?
【浄空法師】:六道就沒有了。所以六道怎麼來的?六道是從執著來的,人沒有執著哪來的六道?六道沒有了,他到哪裡去了?六道外面還有境界叫四聖法界,就是阿羅漢、辟支佛、菩薩、佛這四層。這四層我們一般講也是淨土,跟六道比它清淨了,六道染污,所以這叫淨土。如果是在六道裡面?六道有善惡,天道善、人天善,餓鬼、畜生、地獄這個苦,太苦了,那是惡,惡的感應,善惡的感應。
六道がなくなります。ですから六道はどこから来るのでしょう?六道は執着から来ます。人に執着がなければどうして六道などがあるでしょうか?六道がなくなると、その人はどこに行くのでしょうか?六道の外には更に境界があり、四聖法界【注】と言います。つまり阿羅漢、辟支仏(びゃくしぶつ)、菩薩、仏の四層です。この四層を私たちは一般に浄土とも言い、六道よりも清浄です。六道は穢れています。ですからこれを浄土と言います。六道の中ではどうでしょう?六道には善悪、天道の善、人天の善、餓鬼、畜生、地獄があり、これは非常に苦しいものです。それは悪であり、悪の感応、善悪の感応です。
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【注】 四聖法界(ししょうほっかい)・・・・四つの悟りの世界。さらに迷いの世界(六道)を合わせて、十界(じっかい)、または十法界という。十法界は迷いの世界を六つ(六道)、悟りの世界を四つ(四聖法界)に分けた世界観のこと。これら十法界をさらに超越すると、究極円満の一真法界(=実報土)に入る。
【悟界】(四聖法界)
・仏界、菩薩界、縁覚(えんがく)界、声聞(しょうもん)界。
【迷界】(六道輪廻)
・天上界、人間界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界。
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【司会者】:是因為人們有執著和分別心,然後用這個心去造分別的業,然後感得分別的果報,善惡果報。
人々には執着と分別心があります。そしてこの心を使って分別の業を造り、その後分別の果報、善悪の果報を受けます。
【浄空法師】:對,六道裡頭有善惡。
そうです。六道の中には善悪があります。
【司会者】:就是六道,然後三大類,這六道就出來了?
つまり六道、その先に大きく三種類があり、これは六道を出ているのですね?
【浄空法師】:對,四聖法界裡頭沒有善惡。
そうです。四聖法界の中に善悪はありません。
【司会者】:從六道回溯到善惡的源頭,分別造成的?
六道から善悪の根源まで遡ると、分別が造り出したものなのでしょうか?
【浄空法師】:對,分別跟執著造成的。所以在四聖法界裡面它有四個層次,前面兩個層次有分別,上面兩個分別沒有了,分別沒有了。所以你看阿羅漢執著沒有了,他還有執著習氣,執著習氣斷掉之後,他就變成辟支佛,就升一級了。辟支佛沒有執著的習氣,但是他有分別,所以他要把分別斷掉,分別斷掉了他就變成菩薩,就升級了。菩薩沒有分別,有分別的習氣,分別習氣斷掉之後,他就成佛了。但是佛他還有妄想,這個東西斷掉之後,四聖法界也沒有了。
そうです。分別と執着で造られたものです。ですから四聖法界に中には四つの階層があり、先の二つの階層には分別があり、上の二つには分別はありません。分別はなくなります。ですから阿羅漢に執着はありませんが、まだ執着の習気が残っています。執着の習気を断ち切った後、その人は辟支仏に変わります。一つ昇格します。辟支仏には執着の習気はありません。しかし分別があります。ですから辟支仏は分別を断ち切らなければなりません。分別を断ち切れば、その人は菩薩に変わります。昇格します。菩薩に分別はありませんが、分別の習気があります。分別の習気を断ち切った後、その人は仏に成ります。しかし仏にはまだ妄想があり、これを断ち切った後、四聖法界もなくなります。
【司会者】:您說出六道之後,這四聖法界是不是他就沒有生死了?
六道を出た後、この四聖法界には生死がないのでしょうか?
【浄空法師】:四聖法界沒有生死,沒有分段生死。像我們現在這個身體有生有死,在它那裡沒有了,它那裡沒有胎生,他是化生的、是變化的。所以四聖法界裡頭沒有像我們現在身有生有死,生老病死這個沒有了。
四聖法界には生死はありません。生死の区分はありません。私たちの肉体には生と死がありますが、そこにはありません。そこでは胎生【注1】はなく、化生【注2】です。変化するものです。ですから四聖法界の中には私たちの肉体のように生死はありません。生老病死はありません。
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【注1】 胎生(たいしょう)・・・・母体から生まれるもの。
【注2】 化生(けしょう)・・・・母体や卵からではなく、忽然と生まれるもの。現れ出る、成り出るもの。
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【司会者】:這是最苦的,生老病死。
生老病死、これは最も苦しいものです。
【浄空法師】:六道裡頭有生老病死,有這個現象,四聖法界沒有這個現象。
六道の中には生老病死、この現象があります。四聖法界にこの現象はありません。
>>>人類の知らない宇宙・人生の真相05/10につづく・・・。
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