昨日と今日、余は活発に活動してきた。昨日は神楽坂に行き、今日は下北沢へ行って来た。双方ともよい町である。特に後者は余の中で人気高騰中である。とある株のように下落はせんだろう。
昨日、余は放課後に四ッ谷から神楽坂まで約30分歩いた。外濠・靖国通りを歩いてきた。並木は枯れ、所々に先日の雪が氷としてアスファルトに依存している。余はそれを見つけ次第踏みつぶしながら、時に滑りながら歩いた。この目的は何かと問われれば「行ったことのない喫茶店探し」と応える。余は元来喫茶店が好きだ。
しばらく歩いていても喫茶店は見つからない。結局、神楽坂まで見つからなかった。途中、去年うけた統一試験会場であった東京理科大の朝鮮人参のような坂を無意味にも登って下った。余は去年自信満々でこの坂を下りたものである。
神楽坂には上島珈琲店という傑作がある。そこに寄ろうとしたがふと左を見ると喫茶店が有るではないか。だが、看板を読んでも何と書いてあるかわからん。とにかく入ってみた。薄暗い店内、白壁、太い黒柱、洞窟のような入り口、古いマホガニーの机、上品なクラシック。雰囲気が非常によい。余はオ・レ・グラッセを頼んで司馬遼太郎の『花神』を取り出す。
オ・レ・グラッセは大きいワイングラスに入れられ出てきた。余はこれを昨日初めて見たのである。茶色の苦い液体と白の甘い液体がどうにも混ざらいで分離されている。余はグラスを揺らして混ぜようと試みたが液体は反抗する。余はパレスチナを思い出した。オ・レ・グラッセは初めに苦み、そして甘みが広がり爽やかな苦みが少し残る。なかなか上品なものであった。
横の席に3人の翁が話して居た。余はその話を例のごとく盗み聞きしていた。「あいつはバカだ」「メールでやりとりするなんてバカだ」などという会話が聞こえてくる。論題は堀右衛門事件のようだ。しかし、話が長い。1時間ほど同じ論題を話し続けている。余は飽きた。人間は器用な動物である。1時間の間で色々な論題を話すことができるだろう。
帰り掛けに本屋に行きアマルティア・センの『人間の安全保障』を購った。これは『貧困の克服』の続編であり、余はこれを読んでいた。昨日かったものを今日読んでしまった。この2冊は「教育」の重要性を改めて教えてくれる本である。人間の安全保障にとどまらずエイズや女性の地位向上、核問題にも触れている。特に興味深いのが文明の衝突を軽く批判している所だ。
先に述べたように、今日、余は下北沢を散策してきた。目的はない。この町は車の通りがまりなく落ち着いて歩くことができる町である。この町には「共存」という言葉が似合うだろう。様々な店と人が構え、歩いている。下北沢の区画は複雑であるが、ここを歩く際には区画を意識せずにゆるりと歩くことを楽しむとよいだろう。余は小1時間歩いていた。近々、また行くだろう。余の健脚と共にいけるものはおらぬか。
下北沢から余の家まで新宿を介さねばならぬ。新宿を歩く人は好き勝手に歩く。人の間を縫ったり、人にぶつかりながら歩いたり、走ったり、立ち止まったり、ふらふらしたり。周りを気にせず歩くから困る。非情な目で見れば、人間は自分の好きなように行動する非情なものである。好きなものを食べ、頭をかき、つばをはき、鼻くそをほじり、しゃべり・・・しかし、このように非情な目で見る余が一番非情かもしれん。
話がそれた。座興であった。
JJ駅につくと女子高生が数人駆け込み乗車をしていた。駆け込みされた車両にはサラリーマンがおり、必然的に女子高生に彼は囲まれた。彼はうれしそうであった。単純な奴だ。余はスーパーに寄り、近道をして小さな公園を通った。真ん中にさしかかると余はくそガキが作った小さな落とし穴にはまってしまった。
余の方が単純な奴であったようだ。これまたしかり。
昨日、余は放課後に四ッ谷から神楽坂まで約30分歩いた。外濠・靖国通りを歩いてきた。並木は枯れ、所々に先日の雪が氷としてアスファルトに依存している。余はそれを見つけ次第踏みつぶしながら、時に滑りながら歩いた。この目的は何かと問われれば「行ったことのない喫茶店探し」と応える。余は元来喫茶店が好きだ。
しばらく歩いていても喫茶店は見つからない。結局、神楽坂まで見つからなかった。途中、去年うけた統一試験会場であった東京理科大の朝鮮人参のような坂を無意味にも登って下った。余は去年自信満々でこの坂を下りたものである。
神楽坂には上島珈琲店という傑作がある。そこに寄ろうとしたがふと左を見ると喫茶店が有るではないか。だが、看板を読んでも何と書いてあるかわからん。とにかく入ってみた。薄暗い店内、白壁、太い黒柱、洞窟のような入り口、古いマホガニーの机、上品なクラシック。雰囲気が非常によい。余はオ・レ・グラッセを頼んで司馬遼太郎の『花神』を取り出す。
オ・レ・グラッセは大きいワイングラスに入れられ出てきた。余はこれを昨日初めて見たのである。茶色の苦い液体と白の甘い液体がどうにも混ざらいで分離されている。余はグラスを揺らして混ぜようと試みたが液体は反抗する。余はパレスチナを思い出した。オ・レ・グラッセは初めに苦み、そして甘みが広がり爽やかな苦みが少し残る。なかなか上品なものであった。
横の席に3人の翁が話して居た。余はその話を例のごとく盗み聞きしていた。「あいつはバカだ」「メールでやりとりするなんてバカだ」などという会話が聞こえてくる。論題は堀右衛門事件のようだ。しかし、話が長い。1時間ほど同じ論題を話し続けている。余は飽きた。人間は器用な動物である。1時間の間で色々な論題を話すことができるだろう。
帰り掛けに本屋に行きアマルティア・センの『人間の安全保障』を購った。これは『貧困の克服』の続編であり、余はこれを読んでいた。昨日かったものを今日読んでしまった。この2冊は「教育」の重要性を改めて教えてくれる本である。人間の安全保障にとどまらずエイズや女性の地位向上、核問題にも触れている。特に興味深いのが文明の衝突を軽く批判している所だ。
先に述べたように、今日、余は下北沢を散策してきた。目的はない。この町は車の通りがまりなく落ち着いて歩くことができる町である。この町には「共存」という言葉が似合うだろう。様々な店と人が構え、歩いている。下北沢の区画は複雑であるが、ここを歩く際には区画を意識せずにゆるりと歩くことを楽しむとよいだろう。余は小1時間歩いていた。近々、また行くだろう。余の健脚と共にいけるものはおらぬか。
下北沢から余の家まで新宿を介さねばならぬ。新宿を歩く人は好き勝手に歩く。人の間を縫ったり、人にぶつかりながら歩いたり、走ったり、立ち止まったり、ふらふらしたり。周りを気にせず歩くから困る。非情な目で見れば、人間は自分の好きなように行動する非情なものである。好きなものを食べ、頭をかき、つばをはき、鼻くそをほじり、しゃべり・・・しかし、このように非情な目で見る余が一番非情かもしれん。
話がそれた。座興であった。
JJ駅につくと女子高生が数人駆け込み乗車をしていた。駆け込みされた車両にはサラリーマンがおり、必然的に女子高生に彼は囲まれた。彼はうれしそうであった。単純な奴だ。余はスーパーに寄り、近道をして小さな公園を通った。真ん中にさしかかると余はくそガキが作った小さな落とし穴にはまってしまった。
余の方が単純な奴であったようだ。これまたしかり。