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本と音楽とねこと

もっと言ってはいけない

橘玲,2019,もっと言ってはいけない,新潮社.(4.5.24)

(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)

 本書に、言ってはいけない―─残酷すぎる真実ほどのインパクトはない。
 行動遺伝学の驚くべき知見は、前著でほぼ紹介され尽くしているからだ。

 それでも、知能、性格、精神疾患等は遺伝により形成、生成する度合いが非常に大きく、親の子どもの育て方(共有環境)は、子どもの能力や性格形成に寄与するところが小さく、それよりも、友人関係(非共有環境)の方が子どもの育ちにおおいに影響する、こうした重要な知見をおさえておくうえでは、本書はとても有益である。

 俗に「氏が半分、育ちが半分」というが、行動遺伝学は育ち(環境)を「共有環境」と「非共有環境」に分ける。専門的にはさまざまな議論があるが、在野の心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは共有環境を「子育て」、非共有環境を「友だち関係」として、子どもは遺伝的なちがいをフック(手がかり)にして、友だち関係のなかで自分をもっとも目立たせるような「キャラ」をつくっていくのだと考えた。本書もハリスに従って、「遺伝」「子育て」「友だち関係」によって「私」がつくられると考えよう。
 『言ってはいけない』でも述べたが、行動遺伝学が発見した「不都合な真実」とは、知能や性格、精神疾患などの遺伝率が一般に思われているよりもずっと高いことではなく(これは多くのひとが気づいていた)、ほとんどの領域で共有環境(子育て)の影響が計測できないほど小さいことだ。音楽や数学、スポーツなどの「才能」だけでなく、外交性、協調性などの性格でも共有環境の寄与度はゼロで、子どもが親に似ているのは同じ遺伝子を受け継いでいるからだ。
(p.43.)

 人間の性的指向性もまた、遺伝により決定される度合いが高いことが、わかっている。

 知能や性格が遺伝しないなら、性的指向も同様だろう。同性愛は親の「歪んだ」子育てや幼少期の「異常な」友だち関係によって生じた病理で、本人の「努力」で克服できることになる。これはいうまでもなく、同性愛を「神への冒瀆」とする宗教原理主義者たちの主張と同じだ。遺伝率ゼロの理想社会は、同性愛者を徹底的に差別する世界になるだろう。
 もちろん「リベラル」なひとは、こうした批判に耳を貸さないだろう。彼らは、「知能や精神疾患、犯罪は遺伝しないが、同性愛は生得的だ」というにちがいない。なぜなら科学的に正しいかどうかには関係なく、すべては「政治的に正しい」べきだから。これがPC(PoliticalCorrectness/政治的正しさ)で、1970年代以降、アメリカのアカデミズムでは「科学」と「政治」のどちらを取るかが大論争になった。──日本のアカデミズムではまったく話題にならなかったが。
(pp.44-45)

 長い歴史を俯瞰するならば、遺伝か環境かという二者択一の議論は意味をなさなくある。
 なぜなら、環境によって人間の性格、気質が変化し、それが遺伝子に組み込まれるしくみがあるのだから。

 橘さんは、クリストファー・ボームの議論に依拠し、狩猟採集生活から定着農耕生活への移行により、暴力の忌避、暴力への懲罰という、新たな道徳が実装されたことを指摘する。
 
 狩猟採集生活では獲得した獲物はその場で食べるか、仲間と平等に分けるしかなかったが、貯蔵できる穀物は「所有」の概念を生み出し、自分の財産を管理するための数学的能力や、紛争を解決するための言語的能力が重視されるようになった。
 その一方で、狩猟採集社会では有用だった勇敢さや獰猛さといった気質が人口稠密な集住社会(ムラ社会)では嫌われるようになった。牧畜業では気性の荒い牛は仲間を傷つけるので真っ先に排除される。それと同様に、農耕によってはじめて登場した共同体の支配者(権力者)は自分に歯向かう攻撃的な人間を容赦なく処分しただろうし、村人たちも攻撃的な人間をムラの平和を乱す迷惑者として村八分にして追い出しただろう。農耕社会では、温厚な気性が選択的に優遇されたのだ。
(p.212)

 社会が平等主義的に変わっていくと、仲間内で自己中心的だったり、暴力的な振る舞いをすることが忌避されるようになる。極端に暴力的な人間は殺されたり、共同体から排斥されて、その遺伝子はじょじょに消えていったはずだ。
 共同体の秩序を保つためには、抜け駆けをするような自分勝手な行為を禁止することも必要だ。旧石器時代には法律も裁判所もないのだから、この問題に対処するもっとも効果的な方法は、不道徳な行為に対しては怒りを感じ、懲罰するようななんらかの本能をあらかじめ埋め込んでおくことだろう。ボームは、これが「道徳の起源」だと考えた。
 いたるところに警察官を配置し、一挙手一投足を監視するには膨大なコストがかかる。だが、他人の道徳的不正を罰することで快感を覚えるように脳を「プログラム」しておけば、共同体の全員が「道徳警察」になって相互監視することで、秩序維持に必要なコストは劇的に下がるだろう。近年の脳科学は、この予想どおり、他人の道徳的な悪を罰すると、セックスやギャンブル、ドラッグなどと同様に快楽物質のドーパミンが放出されることを明らかにした。ヒトにとって「正義」は最大の娯楽のひとつなのだ。
(pp.209-210)

 そして、驚くべきことに、「リベラル」と「保守」の分岐、分裂もまた、遺伝する度合いが高い、言語的知能の格差によって生起するものだ、という。

 こうした経験を子どもの頃から繰り返していると、言語的知能の高い子どもは見知らぬ他人との出会いを恐れなくなり(怒られても言い返せるから)、口下手な子どもは親族や友人の狭い交友関係から出ようとしなくなるだろう(自分の行動を説明する必要がないから)。
 これが「リベラル」と「保守」の生得的基盤だとされているが、だとすれば、世界を恐れない(言語的知能の高い)子どもは、異人種の友だちや外国人との恋愛、留学、一人旅まで「新奇な体験」全般に興味を抱くようになるはずで、これが「ネオフィリア(新奇好み)」だ。それに対して世界を脅威と感じている(言語的知能の低い)子どもは、いつも同じ仲間とつるみ、知らない相手を遠ざける「ネオフォビア(新奇嫌い)」になるだろう。
 これはヒトの性格で、どちらが正しくどちらがまちがっているということはないが、高度化した知識社会ではネオフィリア(リベラル)の方が社会的・経済的に成功しやすく、ネオフォビア(保守)はうまく適応できない。世界でもっとも知識社会化が進んだアメリカでは、東部(ニューヨーク、ボストン)や西海岸(サンフランシスコ、シリコンバレー、ロサンゼルス)の都市に裕福なエリートが集まり、民主党(リベラル)の牙城となる一方で、トランプ支持者はラストベルト(錆びついた地域)と呼ばれる中西部の荒廃した街に吹きだまっている。
(pp.174-175)

 人間の能力、気質、性格等の形成とそれらの格差、差異についての構築主義的なアプローチが無効になるわけではないとしても、行動遺伝学の知見をふまえない議論は、現実的妥当性を欠くものとなってしまうこと、わたしたちはこのことを肝に銘じるべきだろう。

この社会は残酷で不愉快な真実に満ちている。「日本人の3人に1人は日本語が読めない」「日本人は世界一“自己家畜化”された民族」「学力、年収、老後の生活まで遺伝が影響する」「男は極端、女は平均を好む」「言語が乏しいと保守化する」「日本が華僑に侵されない真相」「東アジアにうつ病が多い理由」「現代で幸福を感じにくい訳」…人気作家がタブーを明かしたベストセラー『言ってはいけない』がパワーアップして帰還!

目次
プロローグ 日本語の読めない大人たち
1 「人種と知能」を語る前に述べておくべきいくつかのこと
2 一般知能と人種差別
3 人種と大陸系統
4 国別知能指数の衝撃
5 「自己家畜化」という革命
6 「置かれた場所」で咲く不幸―ひ弱なラン


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