「氷壁」の続きです。
昭和31年1月1日朝8時ちょうど…奥又白池の畔で一泊した二人は、前穂北壁からAフェースを経て頂上に登頂する計画をいよいよ実行に移します。
午後3時北壁を登り切ります。
3時30分Aフェースに取り付きますが、5時半頃には暗くなってきて登攀を断念、Aフェースの上部でビバーグすることになります。僅かな岩の隙間で睡魔と寒気に耐えながら、二人はお互いに励ましあいながら一夜を過ごします。
1月2日雪は小止みになり二人は登頂を決断します。あと僅か30mで登頂は完了なのです。二人の念頭には「戻る」と云う考えは全くありませんでした。
登攀を始めてから1時間半かかって20m登りました。
あと残す距離はわずか10m…
二人はタバコを一服吸うと
最後の登攀に挑みます。
このあたり…私はスリルに胸をドキドキさせながら読んだのは、まだ22歳ぐらいの頃だったかな…
読み残すと気になって仕方がないし、明日に差し支えるから無理に眠ろう…と思うと余計に寝られず…それに二人の女性がどうなるのか…などと思うと、益々眠れない寝不足の日が続きました。
昭和31年1月1日朝8時ちょうど…奥又白池の畔で一泊した二人は、前穂北壁からAフェースを経て頂上に登頂する計画をいよいよ実行に移します。
午後3時北壁を登り切ります。
3時30分Aフェースに取り付きますが、5時半頃には暗くなってきて登攀を断念、Aフェースの上部でビバーグすることになります。僅かな岩の隙間で睡魔と寒気に耐えながら、二人はお互いに励ましあいながら一夜を過ごします。
1月2日雪は小止みになり二人は登頂を決断します。あと僅か30mで登頂は完了なのです。二人の念頭には「戻る」と云う考えは全くありませんでした。
登攀を始めてから1時間半かかって20m登りました。
あと残す距離はわずか10m…
二人はタバコを一服吸うと
最後の登攀に挑みます。
このあたり…私はスリルに胸をドキドキさせながら読んだのは、まだ22歳ぐらいの頃だったかな…
読み残すと気になって仕方がないし、明日に差し支えるから無理に眠ろう…と思うと余計に寝られず…それに二人の女性がどうなるのか…などと思うと、益々眠れない寝不足の日が続きました。
彼は7人のパーティを組み、1865年(慶応元年)7月13日ツェルマットを出発、尾根に一泊後、翌14日ヘルンリ稜から登坂し、昼過ぎにマッターホルンの初登頂に成功したのですが、不運にも下山途中の転落事故で4人の命が失われたが、ウィンパーと2名のガイドは無事に生還したのですが。
石岡繁雄氏につきまして
敗戦後まもない昭和22年の夏、10代の少年とともに北アルプス穂高屏風岩正面岸壁初登攀をなしとげ、その後も三重県鈴鹿市に本拠をおく岩稜会をひきいて数々の岩壁を踏破、名著といわれる写真集『穂高の岩場』上下巻を完成させた登山家で応用物理学者の石岡繁雄は、『屏風岩登攀記』に次のように記している。
「山は、その美しさと厳しさが織りなす綾錦を形成し、無数の美徳と教訓を提供してくれているはずであり、・・・・・・それが私の山への期待でもありました。しかしながら私の歩いた道には、そういうものよりはむしろ、暗くて悲しい人間の葛藤や、ナイロンザイル事件のように、社会との闘いといった全く異質のものが、大きな位置をしめております」
いったい何ゆえに、彼の山体験はかくも人間社会の葛藤の影を負うことになったのか。それは「高度成長のためには犠牲もやむなし」という風潮にたいし、真実をつきつけ続けた者の宿命でもあったのだろうか。
石岡の一生を決定づける事件が昭和30年に発生した。同年正月2日、彼の実弟・若山五朗が、岩稜会の三人のパ-ティで厳冬期のアルプス前穂高岳東壁を登攀中に数十センチ滑落、麻ザイルより数倍強いとされて登山界に急速に普及しつつあったナイロンザイルの、予想だにせぬ切断により墜死したのである。
石岡繁雄氏のHPより
山は美しい魔物…その妖しい魅力にに惹かれて、挑戦する若い命を呑み込んでいくのですね。
今年の夏山も無事に済むように祈ります。