自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★内陸地震、秀吉の時代と今

2012年01月03日 | ⇒ランダム書評
 怖い本を読んでしまった、率直な読後感である。『秀吉を襲った大地震~地震考古学で戦国史を読む』(寒川旭著、平凡社新書)。著者は地震考古学という新しい研究分野を拓いた人である。だから過去の被災地をどんどんと遡り研究を掘り進める。そこから、「私たちは、秀吉の時代と同じような『内陸地震の時代』を生きており、その背後には、海底のプレート境界からの巨大地震が迫っている」と導き、本書に記した。発行日は2010年1月。翌年3月11日に東日本大震災が起きた。地震は過去のトピック的な出来事ではなく連続するものだと実感せざるを得ない。

 羽柴秀吉の時代の地震が中心に書かれている。秀吉は2度、度胆を抜かれる地震を経験している。1度目は1586年1月18日、中部地方から近畿東部が激しく揺れた天正地震。越中の佐々成政を攻めて、大阪城への帰路、琵琶湖南西岸の坂本城にいた。揺れは4日間も続き、その後、秀吉は馬を乗り継いで大阪に逃げるようにして帰った。この坂本城はもともと明智光秀が築いた城だった。光秀は、本能寺の変を起こし、秀吉に敗れて近江に逃れる途中で殺された(1582年7月)。著者も「明智光秀ゆかりの城にいて、大地の怒りに触れた瞬間、どのような思いが胸をよぎっただろうか」と書いているように、秀吉には因縁めいて居心地が悪くなったに違いない。この地震では、岐阜県白川郷にあったとされる帰雲城(かえりくもじょう)が山崩れで埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族が一瞬にして絶えた。

 秀吉が2度目に大震災に遭ったのは10年後の1596年9月5日。太閤となった秀吉は中国・明からの使節を迎えるため豪華絢爛に伏見城を改装・修築し準備をしていた。その伏見城の天守閣が揺れで落ち、城も崩れた。それほど激しい地震だった。秀吉は無事だったが、その崩れた伏見城に駆け参じたのが加藤清正だった。当時清正は、石田三成と諍(いさか)いを起こし、秀吉の勘気を受け伏見城下の屋敷に謹慎中だったが、数百人の足軽をともなって駆けつけた忠誠心が秀吉を感動させ、その後謹慎処分が解かれた。このエピソードが明治に入り歌舞伎「地震加藤」として広まった。ほかにも、伏見地震にまつわる秀吉の伝説がある。誰かが混乱に紛れて刺殺に来るのではないかと、秀吉は女装束で城内の一郭に隠れていたとか、建立間もない方広寺の大仏殿は無事だったが、本尊の大仏が大破したことに、秀吉は「国家安泰のために建てたのに、自分の身さえ守れぬのならば衆生済度はならず」と怒りを大仏にぶつけ、解体してしまったという話まで。災難を通して秀吉という天下人の人格が浮かび上がる。

 問題は、この伏見地震の4日前には愛媛県を震源とする伊予地震が、また前日には大分・別府湾口付近を震源とする豊後地震が発生しており、活断層が連鎖した誘発地震だったということだ。日本列島は起伏に富んで風光明美、気候も温暖だが、この島は地震によって形成された島々でもある。したがって、「私たちは、大地の激しい揺れから逃れることはできない」と筆者は強調する。秀吉の時代と違っているのは、現代のわれわれは文明の産物に囲まれていることだ。高層ビルや高速道路、電柱や電車、自動車、そして原子力発電所まで、その文明の産物が凶器なりかねないのだ。「私たちの国土を破滅に向かわせてはならない」。筆者のメッセージは重い。

⇒3日(火)朝・金沢の天気   くもり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする