ひげ坊主の散漫な日常

アラ還オヤジのとりとめない日々を、独断と偏見のみで、気ままに書きます。なので、すべて個人的感想です。万端、悪しからず。

「三島由紀夫の予言 すめろぎは、などて人間となりたまひし」大切だから、保存します(37)。BBの覚醒記録より

2017年09月26日 | 皇室
  • 恥ずかしながら、三島由紀夫を読んだことがありません。
  • 「割腹事件」は、小学4、5年生の頃でした・・・・。
  • 「国家は、幻想」。
  • だからこそ、「民族の物語」が必要なのだ。
  • 以下、転記。
  • 「三島由紀夫の予言 すめろぎは、などて人間となりたまひし」(初出11/23/12)

 

さて預言と予言、いずれを三島由紀夫が市ヶ谷自衛隊バルコニーで飛ばした激に充てるべきか。漢語の上では双方同義だそうだが、聖書学の上では預言は神からの啓示であり、予言は未来の予測であり、よって常識的にはむろん予言であろうけれど、三島の最後の言葉は単なる未来予測として語るには余りにも重い。

三島の極めて身近にいらした方からお聞きしたこと。「夜、書斎のデスクに伏せてうたた寝をしていると、軍靴の響きが聞こえるんだ」と、三島がその方に語った。詳細は省くが、ニ二六の霊魂たちであろうという結論に達した。三島がそのたぐいを信じていたとは思わないが、その時の会話の成り行きで一瞬青ざめていた、という。最初は笑みで気楽に語っていたのが、ニ二六のある方のお名前が具体的に上がったとたん、さあっと顔色が変わったと。

・・・しかしそれにしてもやはり預言という字はふさわしくない。二・二六事件の将校たちから託されたメッセージだとしても、彼らは神ではないのだから。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」

天皇陛下よ、なぜあなたは人間となってしまわれたのか。この言葉の意味が分かったのは最近のことだ。三島文学のきらびやかな美学の奔流に幻惑翻弄されるばかりで、楯の会に代表されるもう一つの「思想」にも「行動」にも関心が向かわなかったせいもある。

ある日ふと、日本というものに目が行き心を傾けるにつれ、三島由紀夫のもう一つの側面に光が当たって見えてきた。(今、都内ではかなりの揺れあり)

・・・・・地震で気勢が削がれたのか書き継ぐ気力が途絶えました。何を書こうとしていたのだろう。三島さんが、市ヶ谷のバルコニーで飛ばした激を今こそ噛み締めている人達も多いのではないでしょうか。三島さんが憂え、警告を発した通りの日本になっていますね。

それと、三島さんの発した「すめろぎ」に啓発され、皇室小論を試みようとしたのでした。まさに天皇が「人間」となってから、それまで歴史と伝統に支えられ美しい姿勢を保っていた日本がしどけなく崩れ始め、今や目を覆わんばかりの惨状です。天皇も皇室も、なぜそこに在るのか解らなくなっている日本人もいます。

最近のコメント欄にわずかに書いたことですが、国家というものはしょせん幻想であり、フィクションです。実は人間の概念の中にしか存在しないという意味で。よって、絶えずその幻想をリアリズムに近づけるための努力を払わないと国体は瓦解します。幻想にリアリズムの添え木を当てるのが儀式なのです。儀式はある宗教団体や国家に於けるごとく、マスゲームの形態を取ることもあります。共産党大会も儀式です。史実すら美化歪曲、特定国を罵ることを儀式としている国もあります。

国旗は単なる布切れでしかありません。しかし、そこに一国の誇りを託すから命が通う。国旗は常に国歌斉唱、起立という「儀式」が伴う故に、単なる布切れではなくなります。

日本という国の儀式そのものが天皇です。糸を手繰れば一系の神武天皇という神話的現実に辿り着く。神話を実在とするか、ファンタジーと取るかそれはどちらでもよい。日本という美しい幻想の扇を鞏固に保つには天皇という要が必要なのです。

そのためには、天皇は人であってはならない。GHQによって「人間」に降格させられた時から、扇の要は緩み、しどけなく壊れて来ています。儀式とは建前であります。本音をさらしてはいけないのです。あらゆる制服は本音にかぶせる鎧です。天皇を頂点に、日本人が心を一つに束ねることで、日本の国体は、そこに盛られた美意識も情緒も倫理も、最も効率的に保たれて来ました。天皇に代わる何かがもしあるならば、それでもいいのかもしれませんが、おそらく代わるものはないでしょう。

「およそ禁中の作法は神事を先にす」

と歴代天皇がもっとも重んじたのが祭祀です。祭祀とはその神秘的側面はしょせん極主観領域に属することなのでとりあえず触れずにおくとして、神事は決め事であり儀式であります。建前であり様式です。天皇自体が大いなる建前であり様式なのです。

宮中は「神の庭」であるという「虚構」を皇室、国民合意で受け容れる時、神話が現実となります。なべて儀式は虚構にリアリズムを沿わせるための手立てで、これは西洋とて例外ではありません。ただ日本の場合は、万世一系の神武天皇が根っこにおわす。それを信じねば皇室は成立しません。
少なくとも神話という虚構を儀式を通して信じたふりをすべきです。国という、実はこれも実体の希薄なフィクションを成立させるためには、いずれにしてもそれを束ねる虚構が必要です。それが共産思想であれなんであれ。日本では古来より天皇が国体という幻想を束ねる要でした。
国家というものは意識して維持せねば、解体します。幻想なのですから。
幻想は儀式(共産党大会もそうです)で支えねばなりません。
宮家という舞台で、神の取次ぎ人を演じることを捨て去った存在はもはや禁忌ではあり得ません。単なる人間であることを望まれるなら付与された特権のほとんどを捨て、宮城を去るしかありません。

神武天皇は実在であったとする者、神話であったとする者、それはいずれでもよい。天皇を日本国の国体の要として崇めるという約束事が成立した時に、国は一つにまとまります。
女王蜂はそのように生まれるのではなく、そのように育てられます。天皇を天皇として成立せしめるのは畢竟国民の意識でしかありません。国民が天皇を育てます。ひとたび不要と思えばそこには何もない。

皇室というのは、形而上学です。リアリズムの価値観で測っては、とたんに雲散霧消する存在です。国家の数だけ国家観はありますが、美意識に裏打ちされた国家観は日本特有でしょう。そしてそれを根幹で支えてきたのが天皇でした。

 地震に気を奪われ、なにやら文節重畳する半端な論になってしまいました。

 烈士三島由紀夫 英霊の聲(完全版転載編集)https://youtu.be/jJPBC-WaHeE

 

転記ここまで。