ひげ坊主の散漫な日常

アラ還オヤジのとりとめない日々を、独断と偏見のみで、気ままに書きます。なので、すべて個人的感想です。万端、悪しからず。

「資料  皇后陛下、その精神を形作った生い立ちと環境」大切だから、保存します(26)。BBの覚醒記録より

2017年09月01日 | 皇室
      • 皇室ブログの第一人者、というよりも、日本を愛するすべての日本人を代表するブログ、

        「BBの覚醒記録」が凍結されています。

        ここに至るまでの事は、ネット上で様々人口に膾炙しているので、省きます。

        ここでは、いろいろな柵(しがらみ)を取っ払って、

        私(ひげ坊主)の心に、とりわけ残る記事を採録します。

        日本人が、日本人であり続けるために。

        ※文字レイアウト、キャラクターの使用、写真の追加などは、ひげ坊主の恣意です。

    • 今回は、「GHQの日本弱体化方針によって、皇室に送り込まれた強力なウィルス、正田美智子」

    • を理路整然と述べた、第一級資料です。

    • ここから、皇室の腐敗、ひいては戦後日本の腐敗が具現化していきます。

       長文ですが、「読むか」「読まないか」が、その人の人生の岐路になります。

  • 読むか、読まないか。それだけです。

    •  

      •  以下、転記。

  • 資料  皇后陛下、その精神を形作った生い立ちと環境(初出05/04/15)

 

コメント欄に頂いたコメントを、ご本人にご了解を得ての転載です。

かいつまんでも読めるよう、色文字にしました。

BBのコメントは抜きで、そのままの転載です。

以下、転載。

 

皇后、その出自・カトリック・左翼思想・GHQ?           

 

**さんの情報を基に私も調べてみました。
長くなりますが、大事な資料かと思われるので。

雅子さんがまだ少女期の頃から「雅子ちゃんは皇太子妃にする」

と言っていた福田赳夫氏。そんな早い時期から不思議だが、
小和田夫妻は、福田夫妻の「配下」のような関係。
雅子妃の入内自体が仕組まれたもの、ということだろう。

そして、小和田家の家系についてはとかく囁かれているが、
雅子さんの母方、江頭家も、福田家に類することが言われているのは
ご承知のとおり(むろん、この部分の真偽は不明。状況証拠に
近いものがグレーゾーンとしてあるだけ)福田家は客観的事実。


◆福田赳夫氏出生地 
群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町) 

*インターネット版地名総鑑 - 地区で検索のこと

◆つながりで見るなら、宮沢喜一。こちらも出身で、天安門事件直後の、
天皇皇后を絶対やってはいけない時期に、中国に赴かせて中国の国際信用を取り戻すことに加担。

福田ー宮澤ー皇后(本家のあった東武線「館林」駅の裏手は、エリアだから、事実なのか?)ー皇太子妃(情況証拠による仮説)


◆次に第二の水俣と言われた【昭和電工】つながりで見てみます。



福田赳夫 昭電事件、昭電汚職昭電疑で大蔵省退官(逮捕されたが無罪。しかし何らかのひっかかりは、あったからこその逮捕ではなかろうか?)



三木睦子(三木武夫の妻)

昭和電工の創業者・森矗昶の二女

(姉は元昭和電工社長の安西正夫に嫁いでいる)

三木睦子の左翼ぶり

著書 『戦争で得たものは憲法だけだ 憲法行脚の思想』

『憲法九条、あしたを変える 小田実の志を受けついで』

9条の会結成時呼びかけメンバー。従軍慰安婦救済の「女性のためのアジア平和国民基金」。

金大中大統領がノーベル平和賞を受賞した際「金正日総書記も一緒に受賞して欲しかった」と発言。北朝鮮から勲章を受ける。

「多くのアジア・太平洋地域の 人々に、耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした我国の行為を厳しく反省する」とシンガポールで売国発言した海部俊樹を育てた一人。

自らが国民の付託を受けたわけではないのに、公の場に出しゃばって(おそらく本人は善意の)売国言動は、安倍昭恵と同じ。総理としてそう悪くもない夫の足をそのアタマの悪い言動で足を引っ張ったのも似通う。

◆非差別つながりで言えば宮澤喜一。異常なまでの中韓へのおもねり。
天安門事件の後に、絶対やってはならなかった中国への天皇皇后訪問は
宮澤内閣の時。但し、説は解放運動家小森龍邦によるもので
本人は否定。念のため。

◆皇后陛下の妹、正田(安西)恵美子さんの夫は、安西孝之氏(昭和エンジニアリングの社長)、安西家は、 第二水俣病加害企業である。

皇后陛下の祖母きぬさんはカトリック教徒。(その後の一家の葬儀の場を
見ると聖イグナチオ教会にある程度まとまっているので、一家のうち複数が
信徒であった可能性)

恵美子さんもカトリック教徒。


以上のキーワードを基に、以下の資料。


h

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

(抜粋)



この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

 そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

 これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。

 この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。

 神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

 「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

 フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

 一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。

 弁慶(フ神父のこと)が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。

 最後の握手皆様によろしくとみ声細く

    仰せありしも悲しき思ひ出

                正田きぬ

・・・・・・・・・・・・


◆カトリック、左翼思想、第二水俣、と糸が絡み合ってますね。朝日新聞まで。

資料として紹介した中には、皇室と神父の交わりが書かれていますが、時代的にマッカーサーが、カトリック、プロテスタントを問わず、キリスト教を日本と皇室洗脳化施策として用いていた時なので、当然GHQからのゴリ押しもあっただろうし、記述からその分を割り引いたほうがいいかもしれません。

とにかく度を逸して、キリスト教の関与が多いのですよ。ということは、
GHQ関与の可能性をやはり考えてしまいます。
当時、マッカーサーが最先端の思想統制に用いようと試みていたのが、
プロテスタント、カトリック問わずキリスト教であったのは、史実に明らか
ですから。

その史実の延長線上に、皇室内外における異様なほどの
キリスト教ひしめきが事実としてあります。偶然を遥かに超える確率で、
まして神道の場に、となれば明らかに意図した存在があるわけです。
GHQ以外にあるとすれば、CIAの可能性ですね・・・・。

それに、竹山パーティの竹山謙三郎氏(大蔵省)がGHQに公職追放を受けていないことも、GHQ側の人間であったと推察されます。

◆GHQが皇室内にキリスト教を持ち込み、昭和天皇が改宗しようかとまで
思いつめたのは、史実として残っていますが(「天皇の国師」その他)
その天皇に、フロジャック神父は会っています。皇居に出入りを許されていたのです。昭和天皇の個人的希望ではあり得ないでしょう。前後の経緯から
拝して。改宗を思われたのは、「国民を飢えから救うため」と「天皇の国師」他には
記されていますから、マッカーサーからの交換条件が、改宗であったのでしょう。
よく、留まってくださったと思います。もしマッカーサーの恫喝に屈して改宗なさっていたら、皇室は終わりでした。

◆軽井沢の出会いが偶然を装った仕掛けであったことは、宇佐美長官の国会答弁も記録にあり、もう検証され尽くしていますが、上記の資料でも正田家が深く関わったカトリック神父に帰依した田中耕太郎最高裁長官が、現場にいて写真まで写していた、ということは、正田家も承知の仕掛けであったとしても間違いないでしょう。例の「竹山パーティ」の存在があったことは無論で、この竹山パーティに美智子さんが15歳から出入りしていたことも事実です。高学歴エリートの男性と女性の出会いの場である竹山パーティに。

◆「田中耕太郎」といえば、当時の駐日大使、マッカーサー二世と「砂川事件」裁判について談合、その上で判決を出しています。一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密解除となって以降、日本及び米国公文書から明らかになっています。残党GHQ勢力の手先でしょう。判決はアメリカからの論功行賞狙いであったとも、言われています。


田中耕太郎には、明らかにGHQが関与しています。

むろんGHQ本体は去っているわけですが、その「本質」は日本に埋め込まれて存続していたわけですから。NHKにしろ、海外特派員協会にしろ、日教組にしろ、GHQ代理機関の残滓です。田中は、国際司法裁判所判事を務めたことがありますが、小和田恒もまたそうですが売国つながりの人事か、とふと思ってしまいます。

カトリック背景皇后の入内に昭和天皇の関与があった、ということにショックを受ける人もいるかと思いますが、その当時のGHQがいかに昭和天皇と、皇太子時代の今上陛下とを残酷なまでの脅しで使役していたか、それを考慮すべきでしょう。

昭和天皇の誕生日にA級戦犯への死刑判決、今上天皇皇太子時代の誕生日になったとたんの午前0時から、A級戦犯を次々に吊るして行った彼らの凄まじいばかりの、皇室への脅しが急に消えるわけもありません。


福田元総理が絡んだ雅子妃の場合と同じく皇后も、結構長いスパンでの入内への道がある程度敷かれていたかも?

◆カトリックに関しては正田家で未受洗なのは、ひょっとして皇后陛下だけかも? 弟の修氏の嫁、正田(旧姓大原)もカトリックの家の娘で、そのこだわり方から推して。

それに皇后自身も・・・・本当に未受洗かどうか、自己申告ですしね・・・・。
有名なフロジャック神父と個人的に密着していた、皇后の父の母きぬが、
孫を放置していただろうか? とも思います。
少なくとも、祖母の代からのカトリック神父との個人的御縁なので、精神的には相当カトリックの縁は骨絡み深いと見るべきでしょう。入内に際しても、詳述は紙幅の関係で割愛しますが、カトリックの人たちが、非常に深く関わっていたことが残された資料から伺えます。

◆カトリック=GHQの差金と単純に分類しているわけではないことは、上記
最小限の考察からお解り頂けるかと思います。
皇后陛下の出自にせよ「GHQ関与論」にせよ「陰謀論」と決めつける人々がいます。思考停止するのは楽でしょうが、しかし出自に関しては、正田の本家の住所を調べ、それがどのエリアに当時属していたか調べればいいのです。結論はそれからでしょう。本家があったのは、東武線「館林」駅の裏手で、昔は「目車地区」と呼ばれていました。GHQ関与に関しては、敗戦後のプレスコードから、WGIPまで検証、その流れの中で、事実存在した複数ある事象を時系列で観察、考証すべきことです。偶然の確率を遥かに超えた事象については、明らかに「そう意図した何かの力があった」と見るべきでしょう。

◆「隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!」 (講談社+α新書)には、いかに天皇周辺のキリスト者が、尋常案ならずひしめいているか、が綿密な資料と調査とによって書かれています。
ただ、そのキリスト教が昭和天皇が自発的に求められたものなのか、GHQによる圧力で生されたのかは、意見が別れるところでしょう。私は、聖書の講義を常陸宮殿下になさった美智子さまを、烈火のごとく怒られたという天皇の側面のほうを信じる者です。

 

◆自らの乏しい知識と、狭い硬直した思考で「ないと思う」「あったとは、思えない」・・・だから、なかった、と短絡的な浅い意見というより「感想」ないしは「そうであってほしくない願望」論をしばしば見かけます。

◆GHQの皇室関与と、干渉については複数資料として有効な書籍がありますが、
『日本占領と宗教改革』(岡崎匡史著・学術出版)は、解りやすいでしょう。
GHQによる皇室キリスト教化施策は、天皇陛下とマッカーサの会談直後から
「バイブルクラス」として始まっているので、如実です。

◆なおWiki にあるヨゼフ・フロジャック神父は出身国も来日の時期も重なっているのですが、館林で布教、皇后陛下の祖母との深い接触に関する記述はないようです。
故意に記載されてないのか? あるいは私が何か勘違いしているのでしょうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF

私の勘違いでなければ、なぜ皇后陛下の祖母がらみの記述と神父の活躍した群馬館林時代の記述がないのか、狐につままれたようで不思議です。
「何かの勢力」の意図により、その部分だけごっそり「なかったこと」にされている?

被差別出身で大宅壮一賞を受けた上原善広氏が、正田の本家が被差別にあったことを指摘、しかし行政はその地区をとは認定しなかった、と記述しています。これもまた「なかったこと」にさせられたのでしょうか。

上原氏の記述の信憑性を云々する前に、正田家本家の住所を調べ、昔の非差別エリアでそこがあったのか、なかったのか自らの目で調べるべきでしょう。

Wikiへの未記載は、館林という神父活躍の地名と、正田家のルーツを重ね合わされることが厭だったのか、正田家のルーツがどっぷり、カトリックにあることを知られたくないのか?

 

以上のコメントに対して、次のコメントが寄せられました。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=272500


戦後日本をつくり上げた「意外な2つの勢力」「憲法九条」は「皇室を救い出す」トリック!「天皇の戦争責任回避」と「天皇制存続」実現のための「象徴天皇制」と「戦争放棄」

▼1957(昭和32)年、軽井沢のテニスコートにキューピッドが舞い降りた。その舞台をつくった3人の人物がいる。昭和天皇、カトリックに近い聖公会信徒であり、長く慶応義塾塾長をつとめた小泉信三、そして、死の直後にカトリックの洗礼を受けることになる吉田茂元首相である。小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論からいうなら、カトリック家系の美智子妃誕生は、昭和天皇の同意のもと、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」はけっして偶然ではなく、この時すでに正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常磐会」周辺の一部だけだった。


…………………………………………………………………………………………………
▼ネット上のこの方の他の文章も読むと、スタンスが偏向しているので、まるっと信用はしませんが…
2008年に初版が既に廃版のもよう。amazonに古本がプレミア付であります。

未読で言うのはなんですが…「吉田茂」は美智子さんを嫌っていたという話もあるので、100歩譲って、上から(まぁGHQでしょう)クリスチャン妃を何とかせいという圧力に、しょうがないと手を打ったのかも?

軽井沢テニスコートでの写真を撮った「田中耕太郎」についてwikipediaには、
「1957年8月19日の、皇太子明仁親王(現在の天皇)と正田美智子(現在の皇后)との軽井沢のテニスコートでの出会いは、田中耕太郎が、カトリック人脈である小泉信三、吉田茂らと共に演出したとされており、田中もその出会いの場に立ち会っている。」と、あります。

▼田中氏は「砂川事件」裁判で、米国とご相談の上、ご都合の良い判決を出していますね。(wiki及びニュース記事より)

最高裁判所所長時代に裁判長として「砂川事件」の政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下した(1959年12月16日)。
が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と接触し、一審判決破棄・差し戻しを示唆していたこと、上告審日程やこの結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、次々と機密解除となった日本及び米国公文書から明らかになった。

▼文化勲章受賞。大勲位菊花大綬章を没後叙勲。
大勲位って、戦後、皇族以外は、よくいうことききました~ってアメリカから貰う物なのね…?

▼〔園田義明 著『隠された皇室人脈―憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?』 第1章 皇太子ご成婚と二人のクリスチャン より一部抜粋、要約 P.14-P.40〕
ttp://ameblo.jp/antibizwog/entry-11586549367.html
(頭にh足してください)

さらに一部抜粋して掲載します。

▼小泉も吉田もクリスチャン人脈の中にいた。結論から言うなら、カトリック家系の美智子妃(正田美智子 1934-)誕生は、昭和天皇の同意の下、この2人が仕掛けた政略結婚だった。軽井沢での「運命の出会い」は決して偶然ではなく、この時既に正田美智子に候補が絞られていたのだ。そのことを知っていたのは昭和天皇と吉田 茂と小泉信三。それに、女子学習院の同窓会組織である「常盤(ときわ)会」周辺の一部だけだった。

▼1953(昭和28)年
7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡
1954(昭和29)年
10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見
1957(昭和32)年
5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡
8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」
1958(昭和33)年
11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議
1959(昭和34)年
4月10日 皇太子結婚の儀

▼~皇太子のこの欧州訪問の随行員として、美智子妃誕生の立役者クリスチャントリオ、小泉・三谷・黒木が揃います。さらに、吉田茂は、昭和天皇・今上と2人の皇太子による2つの皇室外交に関わった唯一の人物だったと強調しています。by***~

(中略)
もう一度、先の年表を見ていただきたい。10日に一度くらいの割合で昭和天皇に会っていた吉田 茂が、この皇太子外遊の年に小泉信三(1888-1966)に手紙を書き送っている。吉田と小泉は1942(昭和17)年からの知り合いで、信頼出来る友人同士にして互いのブレーン役を務めていた。小泉は皇太子外遊に部分的に同行し、一足先に帰国していたのだ。

この手紙は1953年10月4日に、吉田によって書かれている。外遊での皇太子の態度が感泣するほど立派だったと書きながら、それも皇太子の教育掛を務めた小泉らの指導のお蔭としている。注目すべきはその次で、皇太子の結婚問題に関する小泉の手紙を松平信子夫人に転送しつつ、熟慮を促したとある。

▼この前年、朝日新聞が1952年7月29日の朝刊に「御意思、十分に尊重 まず北白川、久邇家の順に選考」という四段の囲み記事を掲載し、皇太子妃を巡る報道合戦の口火を切った。ここに「悲劇の宮家」北白川宮家の名前が挙がっていたことを覚えておいてほしい。
(中略)

▼不思議なことに、この吉田の手紙は、天皇皇后両陛下の軽井沢テニスコートでの「初めての出会い」があった1957年8月19日より4年も前に書かれている。つまり、4年前の時点で既に小泉と松平の対立があったことを明確に示している。

▼旧皇族や華族以外からも皇太子妃の候補を挙げるという路線が決まっていたのだろうか。いやむしろ、この手紙が書かれた1953年10月4日の時点で、皇太子妃候補が或る程度絞られていたと考えるべきだろう。
(中略)

▼~1953年といえば、美智子さんは18,9歳。なんで15歳から竹山パーティー?の謎も解ける可能性が。by***~

▼吉田自らがこれだけ慌しく動いているところを見ると、恐らく吉田が北白川宮家を訪問した5月2日前後には、皇太子妃が正田美智子に絞られていたと推測される。そして、この3カ月後に、現在の天皇皇后両陛下は軽井沢で「出会う」ことになる。

▼結局、それは偶然でも運命でもなく、予(あらかじ)め吉田や小泉は、皇太子妃最有力候補として正田美智子に絞り込み、「テニスコートの恋」のシナリオが綿密に描かれていたのだ。新聞各紙の中で『吉田 茂書翰』にある小泉信三宛手紙の不思議に気付いて、内容まで紹介していたのは読売新聞だけである。それ(読売)にしても、軽井沢での「運命の日」以前であることの重要性については何一つ言及していない。
………………………………………………………………


▼華族の素晴らしいお嬢さまが、当て馬として引っ張りまわされるのまで同じですねぇ。

この頃は、まだ国家の為と思っていたのでしょうねぇ。
この明仁皇太子の欧州訪問の随行には、ロックフェラーのエージェントといわれる、山本正の父君も参加。クリスチャン護送船団の一員。

・・・・・・・転載ここまで

正田家の人々 前列右から貞一郎、二女・勅子、母・幸、三女・祐子、五男・篤五郎、妻・きぬ、四男・順四郎、後列右から三男・英三郎、長男・明一郎、義弟・卓治、二男・建次郎

きぬが、最初にヨゼフ・フロジャック神父により洗礼を受け、生涯熱心で活動的なカトリック教徒に。
英三郎は、皇后の父親です。

 

美智子さまの祖母きぬに洗礼を授け、美智子さまの入内を「会心の傑作」と喜び、
美智子さまとも面識があった様子の、ヨゼフ・フロジャック神父。

マッカーサーの「日本キリスト教国化政策」を検証した本です。
「陰謀論」として軽んじられ一蹴されがちなトピックを、膨大な資料を渉猟しつつ、
証明している、とおおむね高評価を受けている本です。
「天皇の国師」にも同様記述あり。

マッカーサーが、神道価値観を壊し、日本国民と皇室の洗脳の道具として(プロテスタント、カトリックを問わず)キリスト教を使ったのは、『日本占領と宗教改革』などの文献の他に、プレスコード、War Guilt Infomation Program(略称 WGIP)などが傍証として、挙げられるでしょう。

 

《皇室とカトリック年表》追加


1945(昭和20)年8月6日 広島に原子爆弾投下
8月9日 長崎に原子爆弾投下

1946(昭和21)年5月22日 第1次吉田内閣発足

1947(昭和22)年1月31日 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見(えっけん)

1949(昭和24)年2月 パウロ・マレラ大司教、昭和天皇に謁見
7月30日 駐日ローマ法王庁使節フルステンベルグ Maximilien de Furstenberg(1904-1988)大司教、昭和天皇に謁見

1951(昭和26)年4月16日 ダグラス・マッカーサー Douglas MacArthur(1880-1964)、フリーメーソン帰国

1953(昭和28)年7月6日 皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)、ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見
10月4日 吉田 茂、小泉信三宛書簡

1954(昭和29)年10月20日 吉田 茂、ローマ教皇ピオ12世に謁見

1957(昭和32)年5月3日 吉田 茂、三谷隆信(1892-1985)侍従長宛書簡
5月12日 吉田 茂、三谷隆信侍従長宛書簡

8月19日 皇太子、美智子軽井沢での「運命の日」

1958(昭和33)年11月27日 皇太子婚約決定の皇室会議

1959(昭和34)年4月10日 皇太子結婚の儀


■皇室二代のバチカン外交

1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効から僅か一年、戦後初の皇族の外遊が行われることになる。選ばれた皇族は、当時の皇太子継宮明仁親王(1933-、今上天皇)だった。1953年3月30日の横浜港。出発を前に、米国船プレジデント・ウィルソン号上で、皇太子は国民へのメッセージを発する。

50万人の人波に送られて横浜を出港した皇太子は、ホノルルを経てサンフランシスコに到着、トロントからニューヨークに入り、ここでジョン・D・ロックフェラー3世 John Davison Rockefeller Ⅲや、家庭教師を務めたヴァイニング夫人 Elizabeth Janet Gray Vining(1902-1999)と会っている。そして英国へ出航、以後フランス、スペイン、ドイツなどを歴訪、最後に米国に戻り、この時にフィラデルフィアのヴァイニング邸を訪れて3日間宿泊した。

約6カ月に亘(わた)る外遊で訪れた国は計14カ国。同年10月に帰国する。この14カ国の中にはバチカンも含まれていた。皇太子は7月6日に第260代ローマ教皇ピオ12世 Pius PP. XII(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli 1876-1958、ローマ教皇在位:1939~1958)に謁見(えっけん)している。三谷隆信(1892-1985)によれば、この時皇太子はピオ12世の自室に招き入れられ、後に第262代ローマ教皇パウロ6世となるジョバンニ・モンティニ Paulus PP. VI(Giovanni Battista Montini 1897-1978、ローマ教皇在位:1963~1978)の部屋にも招かれている。

戦後皇室外交の幕開けを担ったのは、現在の天皇陛下が19歳の時だった。この時、首席随員として選ばれたのは三谷隆信、カトリック信徒のヨハネ・パウロ松井 明(1908-1994、原子力委員会委員1971~1976)首相秘書官、吉川重国(きっかわ しげくに 1903-1996)式部官、黒木従達(1917-1984)東宮侍従長、戸田康英(とだ やすひで 1911-1977)東宮侍従、佐藤 久(-)東宮侍医長などであった。この中で三谷と黒木は、新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862-1933)と内村鑑三(1861-1930)に直接、間接に繋(つな)がるクリスチャン人脈に当る。

 

田中耕太郎  天皇皇后の出会いを設定、偶然の出会いを演出した者の一人として、軽井沢に居合わせた。
カトリック教徒。マッカーサー二世を通じ、アメリカにひれ伏していたことが
後に知れる。

この撮影者が田中耕太郎。 
皇后と親しい緒方貞子も写っているのではないか? と指摘する人たちもいます。
緒方貞子もカトリック教徒です。

緒方貞子は、女性天皇擁立の前提ともなりかねない女性宮家創設のため、
皇室典範変更をはかる、「有識者会議」のメンバーでこの時は、女性宮家
OKの結論でした。その後安倍政権に戻り、ない話になったわけですが、
両陛下の「憲法護持」の立ち位置と合わせて、お二人はアンチ自民・アンチ
安倍政権でしょう。(憲法護持を仰るその政治発言自体が、憲法違反ですが)
有識者会議に、女性宮家に賛成であるに決まっていて、しかも皇后陛下と
親しい緒方貞子を入れ込むなども、アンフェアなやり口でしょう。
どなたの采配かは存じませんが・・・・・・。 

・・・・・・・・・・・・・・

当記事は転載メインでBB発言は、参考画像に添えただけですが、最後に。

雅子妃のだらしなさと、いかがわしさから目を逸らしたいだけの目的での
皇后陛下批判、皇室解体論者の皇室批判と峻別をお願いします。
それらの人々の相乗りは迷惑です。

根底に日本大事の思いがあり、皇室の必要性を知った上での発言であるかどうか
見極めてくださいませ。

転記ここまで。



「天皇ご謀反 保守がなぜ「不敬」の一言で白痴化するのか?」大切だから、保存します(25)。BBの覚醒記録より

2017年09月01日 | 皇室
    • 皇室ブログの第一人者、というよりも、日本を愛するすべての日本人を代表するブログ、

      「BBの覚醒記録」が凍結されています。

      ここに至るまでの事は、ネット上で様々人口に膾炙しているので、省きます。

      ここでは、いろいろな柵(しがらみ)を取っ払って、

      私(ひげ坊主)の心に、とりわけ残る記事を採録します。

      日本人が、日本人であり続けるために。

      ※文字レイアウト、キャラクターの使用、写真の追加などは、ひげ坊主の恣意です。

    • この年(平成27年)の夏は、めっぽう「熱い」ですね。

    • BB様の、やむにやまれぬお気持ちが、直に伝わってくる、重要な文章が目白押しです。
    • 今回は、「天皇論」「日本論」「日本人論」としても、読み応えたっぷりです。
    •  以下、転記。

  • 天皇ご謀反 保守がなぜ「不敬」の一言で白痴化するのか?(初出08/21/15)

 

BBの天皇陛下批判に対して、興味深い投稿を頂いたのでそれにお応えする形でいささか拙論を述べてみたいと思います。

「不敬」の一言で、現在の天皇皇后両陛下及び皇太子の国を損ねかねない
左傾化に対して、それを直視できない保守は愛国の轍を外れたエセ保守である、というのがBBの主張です。

それに対して、思考停止の保守連中の感性は「不敬である」とその一言で論説そのものを拒絶してしまいます。新興宗教の教祖が否定された時の、脊髄反射と似通うところがあります。ものの理非曲直の次元ではなく、教祖に対しての言挙げ自体がいけないのです。

しかし「なぜ、いけないのか」という質問に答えられる者はいません。
いけないのだから、いけないのだ、ということでしょうか。もはや理性の介在する余地はなく、思考として健全な状態にあるとは言えないでしょう。

不敬と、パブロフの犬的に口にする人たちは不敬の定義を承知でしょうか?

不敬行為とは、客体に対する軽蔑の意を表示し、その尊厳を害する一切の行為を指すとされています。

正当な批判が、上記に該当するかどうかが判断の別れめでしょう。
まず、侮蔑には端的に該当しませんね。批判と侮蔑をごっちゃにするレベルの人達は論外です。尊厳を害するかどうかが、決め手でしょうが明治大帝にご意見申し上げていた忠臣がいて、明治大帝はそれを排除なさっていません。
正統な批判とは何か。天皇に国を害する言動ある時である、と一応して良いと思います。

歴史を見れば、島流しにあった複数の天皇は国への謀反で流されています。

戦前は侮蔑と尊厳を害する行為に加えて、現人神否定も不敬とされていました。

おそらく、問答無用の批判否定派は、現人神として崇める感性をいまだ引きずっているのかもしれません。しかし、天皇自らが神聖については否定されました。それを受け入れぬ感性の者達がいるとしても、それならそれで、神が憲法論をなさるなどあるべきことではないでしょう。

天皇ご謀反に該当する歴史は、大化の改新、薬子の乱など複数あり少なくはありません。近くは後醍醐天皇による元弘の乱、有栖川宮熾仁親王による江戸政権への反乱があるでしょう。

暗殺や入水という自殺以外に、死罪になった天皇はいませんが死罪につぐ流刑になった天皇は何人もいます。

第47代天皇、淳仁天皇が淡路国に流されたのをはじめとして、第96代の 後醍醐天皇まで6人。親王は、4人計10人います。

現在の保守が思い込んでいるほど「不敬」の定義が昔から存在していたら、流刑などということ自体がなかったでしょう。不敬、不敬と錦の御旗のようにいうほど、不敬は確立された概念ではないことは、解るでしょうか?

不健全な天皇が現れた時は、廃して来たから現在の皇室があります。

皇太子への不敬も同じく、批判どころか皇太子の器にあらずと判断されれば、排せられていたのです。廃太子の例も複数あります。

歯止めが何もなく、緊張感と自浄機能を完璧に失っているのが現代なのです。そして、ペリリュー島慰霊で端的に分かったのは、天皇の意志が内閣のそれを上回るということで、これは大変危険です。天皇が自虐史観ベースの左傾化思想を抱いている場合は、とりわけ。

皇太子もまた、内閣の判断を仰がずして、こともあろうに「人民解放軍賛歌のオペラに出かけ、習近平国家主席の奥方でありかつ人民解放軍の高官でもある、 彭麗媛(中国人民解放軍総政治部所属・少将)に接触しています。

このままでは、憲法上は象徴と謳われながら実質、天皇が君主の位置へと少しずつ近づいて行きかねません。韓国に謝罪に行きたい、から「行く」という意志に転換されるまでの、道のりはさほど遠くないかもしれない、といえば拙ブログ主の抱く危機感と、そして批判という形で多少でもブレーキを引かねばならぬ、という主張を解って頂けるでしょうか。

天皇皇后という個人批判の前に、GHQがさまざま仕込んで行った皇室弱体化のウィルスがまだ強力に生きています。そして戦勝国が望んだ弱体化が、今上から皇太子とつらなる形で成就しようとしています。そのような「構造としての」皇室問題を俯瞰で見る視力を持たぬから、不敬の一言で足踏みしてしまうのです。

むろん、皇族なかんずく天皇陛下に対しては、いっさいの批判ならず、という枷の必要性を全く解らぬわけではありません。いったんそれを許すと、神聖であるべき何かがズルズルと崩れ落ちていく、その構造は解っています。
しかしながら上記述べたように、皇室が自浄作用の機能を喪失、また国家が制御するブレーキが効かぬ状態になったら、是正できるのは民の声だけです。

国滅びて、何の天皇ぞ。

天皇は天皇という地位にあるがゆえに尊いのではなく、天皇という地位にふさわしい孤独と厳しさを背負いつつ、無私であられ国と民の安寧豊穣を祈られるから、民の魂もその無私という神の境地に感応して、尊びます。

それが私心による、政治観歴史観を持たれ、それを発信なさるようになったら、天皇としては逸脱です。それが、天皇のみならず、ふと民が気づけばいつしか、あろうことか皇后が自身の思想信条を述べる如き状態になっています。

あからさまにはさすがに、おっしゃらぬもののGHQ元メンバーへの賛意表明と賞賛他などにより、憲法護持派であることの表明。男女同権思想を宮中に持ち込まれ愛子天皇画策。男子一系を壊すことがどういうことか、お解りになっていない、ということは、かくも長きに渡り、皇室とは何か解っていない女性が皇太子妃、皇后を務めていらしたということになります。慰安婦問題もどうやら、日本に非があると思い込んでいらっしゃるようです。

民の支えありてこその天皇です。民の心が離れれば、天皇はより只の人間へと堕して行かざるを得ません。そういう意味では天皇を創るも民、滅ぼすも民でしょう。批判いっさいせぬ姿勢こそが、皇室の滅びへの道の引き金になるケースもあります。皇室廃絶論者は別として、現在の天皇皇后両陛下、皇太子殿下への批判を口にしている人たちは、皇室大事だからこそ物申しています。

コメ欄に、面白いご意見を頂戴しました。保守層が天皇陛下のこのところの逸脱に対して見ぬふりしているのは、「承詔必謹」が日本人の民族的潜在意識にあるからではないか、と。

承詔必謹(しょうしょうひっきん)。 読み下せば「詔(みことのり=天皇のお言葉) を承れば必ず謹め」であり、聖徳太子の十七条憲法の第三条にあります。

日本人のDNAに刻印されているのは確かにこの承詔必謹でしょうが、しかし往時の天皇は権力、性となまなましく民も内情は承知で、現在ほどの崇め奉りはなかったのではないか、と思います。

天皇を神とする現人神(あらひとがみ)の概念は、柿本人麻呂の歌「皇(すめろぎ)は神にしませば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほり)せすかも」
他に見られるように、万葉の時代からありましたが、ここ近年のような神聖化は、第一次第二次大戦時に必要に迫られての国家的煽りもその理由ではなかろうかと思われます。ここまで至高の存在として仰いでいるのは、大戦時からというのが拙ブログ主の仮説です。

古来日本の神々はおおらかで、謹厳実直ではありません。現人神も同様に、民はさほどの倫理を求めてもいなかったと思います。ある種の清潔感をも添えて崇め奉り始めたのが、どうも日清日ロ前後、日本が外国を意識、国の束ねをより必要とし始めてからではないかと思われるのです。

でないと、天皇流刑がそれまであった理由が解りません。死刑の次に厳しい処罰を「神」に与えることはないでしょう。現在のような凝り固まった「不敬」連呼保守はいなかったのでしょう。

しかしながら、日本人のDNAの奥深く「畏れ」が刻印されていることは事実です。それはおそらく、「無私であらせられ、ひたすら国家と民のために祈る」祭祀王だからではないでしょうか。祭祀王としての則(のり)から離れられ、政治発言などなさるようになった現状が果たして、天皇のあらまほしきありようでしょうか。

宮中内の神事の厳格なこと、いまだに神官と巫女たちが古代の祈りを引き継ぎ、明け暮れ神事に暇(いとま)無く、火鑽(ひきり)で熾(おこ)された神の火である忌み火は消えること無く連綿と燃え続けています。

 宮中にあまたの神官あり 【転載ご自由に】

国民が真剣に向き合いたい現実 断絶の危機 古神道 日本の精神的背骨

私心なく粛々と営まれる祭祀こそが、天皇の天皇たるゆえんであり、raison d'être(存在意義)であり、日本国のIdentity (自己同一性)です。

国事も公務も祭祀ありてこその二義的な些末事です。

 

順徳天皇の「禁秘御抄」にいわく、「凡そ禁中の作法は、先ず神事、後に他事とす。明暮敬神の叡慮懈怠無し」

皇居の古びた軒端のしのぶ草を見るにつけても、あのよく治まった延喜、天暦の世が、なつかしく、いくらしのんでもしのびきれないことだ。

お住いも五十六億円をかけられた現在の豪邸ではなく、古びたところにお住まいになり、一心に祭祀に務められていたのでしょう。

この頃の天皇の感性は、天変地異も我が身の不徳、と御身に引き受けていらっしゃいました。

その上で天皇の義務は何にも先行して神事である、明け暮れに神事を行うこと、決して怠けてはならぬ。あらゆる公務に先行して、神事を行うべし、と。

これに根こそぎ違背していらっしゃるのが、皇太子と皇太子妃だということもあり、厳しくご批判申し上げてきたわけですが‥‥‥‥・祭祀を疎かになさると、皇室の皇室たる理由の喪失です・・・・・

このところ、天皇陛下の祭祀が心もとなくなりつつあり、体力のしからしむるところかと拝すればしかしながら、巡視艇を宿に改造なさりパラオにまでお出まし。慰霊を否定するわけではありませんが、肝心の祭祀を短縮、放置なさってまで行かれるのは本末転倒でしょう。しかもお膝もとの靖國神社は知らんぷり。コンサート他のお出ましも、ひんぱんです。

英霊は「靖國で会おうぜ」を合言葉に散って行かれたのですから、まずは靖國神社です。せめて「訪れたい」という意思表示をなさって頂きたく存じます。それをあろうことか、「韓国に謝罪に行きたい」

現人神ではなくなりましたが、それでも天皇が靖國を訪れれば、それは参拝とはならず「親拝」と称されます。なぜなら天照大御神のご眷属がご先祖を訪ねられ相まみえられるということなのですから。

「不敬」という思考停止保守の言葉をそのまま返すとするなら、祭祀疎かになされる時からそれは日本の神々、そして皇祖神たる天照大御神への天皇と皇太子の不敬です。それは解るでしょうか。

昭和大帝が愛でられ、また保存を強く望まれていた森を崩御されたとたん、伐採して華麗な住まいを建てるなど、それこそが昭和大帝への不敬ではどざいませんか?

神道に精神性の基礎を置くものなら、先帝のご意志に背いて自らの住まいのために草木をなぎ倒し、動物、鳥達を追い出しての豪邸建設には躊躇があるはず。まして住まいは従来の建物があるというのに。

天皇陛下がお話になっている間、皇后陛下の低頭が宮中のしきたりですが、皇后陛下はそれをおやめになり、これもあからさまなまでに昭和大帝崩御の後です。

そして天皇の半歩ほど遅れ気味に歩くことも、並ぶ場合も適切な距離を保つことも、皇后陛下の代でやめられ、今はぴったり今上陛下と密着、あまつさえ袖や腕を掴んでの杖代わり、どうかすると天皇より先に立って歩かれます。

皇后陛下が、その思想的感受性を土井たか子、元GHQのベアテ・シロタ・ゴードンと同じくするお方です。それゆえにこそ、自らを天皇と同格に扱い、また女帝を望まれもします。現在の皇室内ヒェラルキーにおいて、実質的頂点は皇后陛下なのではありませんか?

自称保守のいう「不敬」とは何でしょうか? 皇后の、昭和大帝への、そして今上陛下へのお振る舞いは不敬ではないのですか?

神事受け継ぐ器量も能もなき皇太子放置も、皇祖神への不敬ではありませんか? ヤフオク問題放置はなかんずく。

この国から天皇陛下ご親修の神事が絶えた時、国は乱れ形を崩します。天皇家の伯家神道の口伝の中に、厳しい予言があります。

「祝(ハフリ)の神事を行わない天皇が百年続くと、日本の国体は崩壊する」

神事をなおざりにして、いったい何の慰霊でしょうか。出かけられれば、予定として発表されていない韓国人の慰霊碑を、ゲリラ参拝される。これが天皇皇后両陛下のあらまほしきお姿ですか? 公式ではない韓国人の慰霊碑参拝は、政治的意味を強く帯びます。これはサイパンでの出来事でした。

我が国最大の巡視艇「あきつしま」をあろうことか、バリアフリーに改造、手術室まで作らせ、一泊だけの宿にお使いなさる。これが正しい姿ですか?
戦闘用に設計された船を老夫婦用の手術室付きホテルに改造、それをまた巡視艇の機能回復させるため、宿の部分を壊してまた改築です。

オペ室をしつらえたからには、それなりの医師と助手、看護師たちも引き連れての大旅行でしょう。内閣の要望に逆らってまで、大金を使い、また祭祀をないがしろにされつつ、出かけられることでしょうか?

宿に使われた船は、改造、そして復元の期間を入れると、少なからぬ日数、日本の海の守りから引き離されたのです。尖閣が日増しに危機にさらされ、それゆえ安倍政権が安保法制案を支持率を下げてまでも急いで成立させようとしている、こんな時期に! 

あきつしまが日本の領海を留守させられている間に、尖閣に民間船の難破を装った人民解放軍の上陸があったら、陛下はどう申開きなさるおつもりだったのでしょうか。中華人民共和国の「国防動員法」をご承知での、あきつしま宿改造でしたでしょうか。

防衛の軽視、無視も共産党はじめ左翼連中と軌を一にする部分です。天皇陛下、皇后陛下がそれでよろしいと、自称保守の人たちはお思いでしょうか?
天皇ご謀反をお止め立てする機能が今日本にはないのです。国民の声以外には。内閣すらお振る舞いを止め得ぬことが、明らかになりました。

天皇批判を保守分断とする見方があり、しかし現状を等閑視すれば皇室、引いいては日本の国体を危うくするとあらば、黙して語らず破れ船を承知で乗り続けるか、浸水に警戒と対策の声を上げるか、2つしか選択肢はないでしょう。

そして、批判を選んだ保守たちの脳裏にあるのは秋篠宮両殿下のご存在です。お二人なかりせば、むしろ批判派の保守も口をつぐむでしょう。

在日の反日運動家辛淑玉は、こう言い放ちました。

「朝鮮人は祖国へ帰れ、というなら天皇を連れて帰るよ」

この発言に対して、自称保守は憤るわけですがしかし、発端は天皇陛下のご発言であることを、見ようとはしないのです。責めるべきポイントを外しています。現実に向き合えないのです。責めを負うべきは辛淑玉ではなく、そう言わせた陛下なのではないですか?

 

「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております」

歴史的検証を加えれば、天皇が朝鮮人である、とはなりません。しかし問題点は「そう言われても仕方のない」あるいは「言われることが解っているのに」そのような発言をされた、ということでしょう。

現在韓国では「天皇の先祖は朝鮮人」はもはや定着してしまっています。

しかも、半島から貰った文化のみをおっしゃり、日本が上げた様々の文化と富には触れず。遣日使の存在もご存知ないし、ご進講する人もお教えしないのでしょう。

仏教を伝えた、は間違いではありませんが、このおっしゃり方だと、あたかも仏教の恩恵に日本が浴したのは朝鮮半島のおかげであるかのようです。
あくまでも中国仏教が通ってきた道筋でしかありません。それに南伝仏教は半島から来たわけではありません。

仰ってはいけない言葉というものがあります。朝鮮人と言われることが解っていることを、おっしゃらないでください。歴史や外交にご意見をおっしゃらないでください、という民の声が不敬ですか? なぜ?

質問は常に前もってお手元に届きます。その段階でお答えをしない選択は出来るお立場です。

覆水盆に返らずで、天皇の祖先は朝鮮人発言は今更取り消しようもなくそのことじたいを蒸し返すというのではなく、この発言に関しても単なるリップサービスを本気にするバカな韓国人と、批判の矛先を他へ向ける保守の愚かさと、ある種の卑怯さ、ある種の怯懦さを言いたいために、記しました。

このご発言の責任は天皇陛下にあります。そこをきちっと、けじめをつけないと繰り返されます。そして皇族の無責任放言が伝統として、皇室に伝わりかねません。

思えば、正田美智子嬢入内の頃から皇室が激変しています。全てが皇后陛下のせいではありませんが、ファッションをとっかえひっかえ、祭祀より皇室の伝統より、女優のようなそのお振る舞いが皇太子よりスポットライトを浴びるようになってから、皇室の本来の御役目から遠ざかって来た気がします。存在感は美智子さまのほうが増して、今や女帝でしょう。もはや目に見える形で、天皇陛下を従え、影響力をふるっていらっしゃいます。

そして現在皇后陛下は「A級戦犯」ご発言、GHQ元メンバーへの賛辞、遠回しながら憲法護持発言、愛子さま天皇を視野においた女性宮家の設立を、ここでも安倍内閣にアンチでご主張。有識者委員会にご自分の手のものを送り込むごときこともなさいます。ウィリアム王子来日の折も、王子の意向を蔑ろに秋篠宮家との接触を阻み、溺愛の東宮とその妃にスポットライトが当たるように細工をされたことも、情報網により明らかです。

自称保守の皆さまは、男子一系を切って、女帝擁立に賛成なのですか? なぜそのような動きがいまだ根強くあることを、黙って見ているのでしょう。首謀者が皇后陛下だから、そして天皇陛下がそれに何も言われてないから、民が言うのは不敬だからですか? 不敬という言葉のもとに全ては許されるのですか? また天皇皇后の昭和大帝への無礼は不敬ではないのですか?

皇后陛下のお望み通り、愛子さまを天皇として立てると、その伴侶の男が皇室の実権を握りますよ? 隠れ天皇として。出自ロンダリングした上で、創価や中韓の男である可能性すらあります。それすらご批判申し上げるのが不敬というなら、不敬とは日本・皇室弱体化を狙う勢力には甚だ便利なキーワードですね。

まっとうな思考への麻酔銃が「不敬」という言葉です。

また、雅子妃を皇后陛下と本当にあなた方は呼べるのですか?

ついに小和田家【出自】の秘密 《水間氏の意向により全文掲載条件でネット転載可》

 

おそらく・・・・秋篠宮殿下は全てを解っておいでで、そこで悪しき連鎖は断ち切れるとは思っています。

断ち切れるなら、なぜ批判を続けるか? 秋篠宮殿下の代でいきなり体質変化は無理だからです。今、悪しき体質は陽のもとにさらすことが、次代の正しい皇室の有りようにつながります。また、民が事実を事実として直視する目を養っておかないと、また同じ愚をいつか繰り返します。

慰霊祭における天皇陛下の「反省」の一言も敢えて申せば「越権」です。時の内閣総理大臣が言葉を選びに選び、腹をくくって発信したあの実は村山談話否定の、そして謝っているように見せかけてその実、詫びてなどいない安倍談話を国民の眼前で一言で崩してしまいました。

解っている国民は影響は受けませんが、安保法制案を理解しない層はそのまま受け取ってしまうでしょう。大変な罪です、敢えて申せば。海外にもエンペラーの放った「反省」の一語は、即座に発信されました。

反省がなぜよくないか? まず英霊に対して失礼です。そして韓国、中国とろくでもないことをしでかしていて、反省も謝罪もしていない国を相手に、日本だけ反省するのは中韓肯定の日本否定で、片務的だから。不公平だからです。そして、一国の総理の談話否定です。

大東亜戦争の終結は、全てが敗戦だったわけではありません。良きものをもたらした側面はありその面では勝ち戦でした。白人の有色人種奴隷化がそこで絶え、明らかに世界史の流れが大きく変わったのです。変えたのは日本です。

皇室批判として出せる膿は出すのがよいのです。その後で秋篠宮殿下が収拾に当たられつつ地ならしをなさり、そして、悠仁親王殿下の御代に日本は整い始める。そのように考えています。

と言うとおそらく、来るであろう反論の一つは「秋篠宮殿下が、今上陛下や皇太子と同じレベルだったらどうするのか」ということでしょう。
それはないと思いますが、仮にあったら、現在と同じく抗議の声を上げ続けるまでのこと。皇室廃絶とは思いません。なぜなら、ローマ法王とエリザベス女王と肩を並べるプロトコル上の世界における極めつけのVIPは天皇陛下であらせられ、その位置はやすやすと手放すべきではないからです。

日本では政治家が長期にとどまらず、スターが出ません。その点皇室は揺るぎありません。

それもあり少々綻びがあっても皇室は存続すべしという意見ですが・・・・出来るだけあらまほしき形で存続して頂きたいのです。

ただ、内閣の意志を天皇が凌駕し始めている今、皇室の自虐史観ベースの左翼思想放置は危険です。

天皇あっての日本なのか、日本あっての天皇なのか。おそらくは不即不離。一方が病めば、もう一方も立ち枯れます。

 二言目には「不敬」で脳細胞壊死する自称保守の人たちは、現在の皇室のていたらくが、GHQの仕組んだレールの終着駅であったことを、思い知るべきです。

天皇皇后批判は、実はその背後にある、日本と皇室の弱体化を謀った戦勝国施策なのだと、なぜ理解できないのでしょうね。

赤い天皇皇后として後世に名を残されぬよう・・・・ 【転載可】

日本を損なう天皇皇后両陛下の反日自虐史観 《転載可》

資料  皇后陛下、その精神を形作った生い立ちと環境

皇室と異教カトリック

コメ欄より拾い上げた「仮説」 テニスコートの出会いは作られていた?

 備考 天皇 パラオでの海上保安庁巡視船船長室宿泊はご自身の意向http://www.news-postseven.com/archives/20150401_312781.html 

【神風特攻隊】自国の危急存亡に際し、身を捨てて立ち向かう犠牲的愛国心を持って欲しい─特攻 最後のインタビュー1

 

今上陛下は「反省せよ」と先の戦争と英霊を貶め、皇后陛下は「A級戦犯」と唾棄なさり、日本弱体化の占領軍憲法を作ったGHQの元メンバーを賛美、皇室に薄っぺらい男女同権主義を持込み、女性宮家の創設と愛子天皇擁立に妄執を燃やされる。男子一系を壊されるというなら、結局皇后陛下は皇室の何たるかをついにお解りでないまま、晩年をお迎えになりつつあります。

顔向け出来ますか? 昭和天皇に、英霊に。

 

【神風特攻隊】自国の危急存亡に際し、身を捨てて立ち向かう犠牲的愛国心を持って欲しい─特攻 最後のインタビュー1

2015年7月16日 JR福島駅をたち、那須御用邸に向かわれる天皇、皇后両陛下=16日、福島市

主権回復の日の、「天皇陛下バンザイ!」がお気に召さず不機嫌な皇后陛下。

 

 

転記ここまで。


「安倍談話の『文底秘沈』」大切だから、保存します(24)。BBの覚醒記録より

2017年09月01日 | 皇室
    • 皇室ブログの第一人者、というよりも、日本を愛するすべての日本人を代表するブログ、

      「BBの覚醒記録」が凍結されています。

      ここに至るまでの事は、ネット上で様々人口に膾炙しているので、省きます。

      ここでは、いろいろな柵(しがらみ)を取っ払って、

      私(ひげ坊主)の心に、とりわけ残る記事を採録します。

      日本人が、日本人であり続けるために。

      ※文字レイアウト、キャラクターの使用、写真の追加などは、ひげ坊主の恣意です。

    • 今回は、(23)安倍首相アメリカ議会演説に対する評価から、創価学会の「本質」をえぐる方向に誘導した、

    • 巧みな展開・構成です。かのエセ宗教の成り立ち、現状などが簡潔にまとめられ、至便です。
    •  

       以下、転記。

  • 安倍談話の「文底秘沈」(初出08/16/15)

 

「文底秘沈(もんていひちん)」というのは朝鮮カルト「そーか、そーだよがっかい」が、日蓮聖人の御書を読み解くとき使う言語です。

要するに、御書は字面ではこう書いてあるが、実はこう言う意味が文章の底に沈められているのだよ、という学会の都合のいい解釈がなされているわけで、結構あたまのいい解決方法かと思います。

なぜ頭がいいかって、日蓮聖人を仰いだ以上御書という上人の書き記した文章をそのまま用いると、朝鮮カルトの教えには都合の悪いこと、現状に反する箇所が当然あるわけですよ。

言ってしまえば、日蓮上人がそーかそーだよ学会を認めるわけないんだから。
朝鮮に親身であったとかいう事実、全然ないですからね。
元寇に使われた朝鮮兵たちが対馬で犯した残虐な行為を書き記しているわけですよ。手先の朝鮮人たちと、南無妙法蓮華経で戦った側です。
韓国の創価学会員知らないでしょう? あなた達日蓮聖人の敵だったの。
日蓮聖人が元寇について残した文章を、そーかがっかいがどのように文底秘沈として、言いくるめるか知らねども。

と前置きして、BBも試みる安倍談話への文底秘沈読み解き。

じっくり聴き、また文字起こしされた文章を読みこめば、実はこれを言ってます。

 

 

ああ、いえいえ。上記の画像の造り主はh●●p://daitoaseinenkai21.blog.fc2.com/img/01_20150131102506ce0.png/ 、必ずしもBBの主張ではないけれど。文言がぴったりだったので、拝借しました

m(__)m

それに、上記の画像にプリントされた文言ほど明確に、安倍総理談話に文底秘沈がなされているわけでもないけれど、だから上記の文言は過剰だけれど、非常に巧妙に繊細に実は村山談話の上書きはしてます。文句を言われても、イエ上書きなどしてません、継承してるって言ってるでしょ、と言い返せるほどの巧妙なやり口です。

解読にはすご~く日本語の能力・感性が問われるところ。

直感や感性で受け止める女子のほうが敏感かも? 

でも、村山さんはアタマが悪いけど、安倍談話は凄く面白くなくて不快感を表明しているし、中韓はぶぅたれているし、まあそういう意味では悪い談話ではなかったと思いますよ?

白人による有色人種の奴隷化から解き放ったのが、大東亜戦争だよ、とすごーーーく遠回しながら、言っちゃってるし。いえ、説明が難しいのだけど、白人による植民地支配ということを前段で、さりげなぁく喧嘩腰ではなく振っておいて、日露戦争の大義みたいなことを自画自賛でなく、これもさりげなぁく振っておいて、途中でとりあえず先の戦争は否定しますけど、反省もしますけど、実は・・・・という文章です。

村山談話は継承すると言葉では言いながら(言わないと現情勢では、残念ながらしょうがないみただし)、でもふとした目つき、ふと漏らす吐息で分かってね、という感じの文章です。

牽強付会? 深読み過ぎ? でもまあ・・・・村山元総理が満足せず、中韓が怒っていて、中韓以外は割に好意的肯定的ってだけでも、成功だったんではないの?

安倍総理には(ご承知のように時として)非常に辛辣な拙ブログ主ですが、今回は花丸を差し上げます。

異論は否定しません。それぞれの感性の差異にもよる意見の相違だと思うので。

ってことで、ちょっと発信は休むかな? ってまた書くかもだから言わないほうがいいのだけど、今あちこちブロガーがやられてるっぽいので、ご心配かけるといけないので。 また、すぐ書くかもしれないけどって言っておかないと、一時は止めるとまで言って、また復帰した前科者なので。(;´∀`)

備考

対馬よ、血迷ったか 【拡散希望】

千年の恨みを忘れぬと言うのなら

 

対馬よ、朝鮮兵にやられた先祖の惨憺たる苦しみを、朝鮮通信使美化で足蹴にしてはならない。

 元軍と言いながら、実は高麗兵主体の軍であった。モンゴル兵は指揮官のみである。


文永の役(1274年)
船舶数 900隻(高麗が建造)
兵 力
高麗人 12700人
漢 人
女真人
宋 人
モンゴル人 30人

総 数 25000人

ベトナムでの韓国兵の残虐と同じ構図。アメリカの手先としてやり放題。常にトップではなくその手下としての暴虐。

日蓮上人が当時の最高権力者・北条時頼に『立正安国論』を提出し、蒙古の襲来を予言していたとされています。こんな日蓮上人が、蒙古の手下として日本人を虐殺した朝鮮人たちに担ぎあげられてお喜びとお思い? 朝鮮カルトそーかがっかいの皆さま。

日蓮聖人の書簡で描かれた元寇。

 

(前略)去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)

 

この「一谷入道御書」は日蓮が佐渡配流中に世話になっていた一谷入道の女房に宛てて文永の役の翌々年に書かれたもので、その後段部分に文永の役における対馬の被害について触れたものである。これによると蒙古軍は上陸後、宗資国(総馬尉)以下の守護勢を撃退し、島内の民衆を殺戮、あるいは生捕りにしたりしたうえ、さらには捕虜としたこれらの住民の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だがこれを貫き通して船壁に並べ立てた、という話を伝えている。

 

静岡大学・楊海英教授(歴史人類学)が解説する。

「正直なところ、モンゴル人の歴史観では、かつて朝鮮半島はモンゴル帝国の属国であり、モンゴルの血統で権威を確立していた国であるという印象があるのは事実です。同様に、清に対しても戦争に敗れて臣下の礼をとり、属国となったことは史実として残っています。ほかの朝貢国と比較すると、朝鮮半島の場合は代々シナ王朝の『属国』であった実態が伴っているのです」


「元朝時代では、高麗は長らくモンゴル帝国のハーン一族、帝室の『婿殿』の立場でした。代々、大都(北京)のモンゴルの帝室から娘を貰って、高麗王の皇后としていました。その子供が新たに王になれば、再びモンゴルから妻を娶るのです。元朝はそのような方法で、朝鮮半島をコントロールしていました。一方、高麗側は常にモンゴルの歓心を得ることに心を砕いていて、日本に対する二度の『蒙古襲来』も、最近の研究ではフビライの娘婿である高麗・忠烈王が、義父の前で手柄を立てたかったので、やたらと侵略を進めたことがわかっています」

中国と蒙古と両方の奴隷国として、女性を貢ぎ続けていた韓国、えらそーに慰安婦があ、とか言うんじゃないっての。蒙古への女性の献上は蒙古が要求したことではなく、高麗が歓心を買うために言い出したことだって。根っからお宅、売春体質じゃん。

どこまでも、属国奴隷根性。それが日本とという正しい倫理観の公正な国が関わってやっと、半人前になりそして終戦。誰のお陰で一丁前になったっての。

歴史はぜーんぶ、属国の歴史。一人前になってやっと70年の国。
日本が併合するまでは、世界の最貧国として人々は裸足で、糞尿が垂れ流されたぬかるみを、歩いていた人たち。

 

 日蓮上人の銅像の台座にも、朝鮮兵たちの残虐行為が刻印されています。

http://guide.travel.co.jp/article/4238/

 

中国系アメリカ人らがサンフランシスコに「抗日戦争記念館」を開設しました。韓国もやり放題です。日本も負けじと、元寇における朝鮮兵の日本人虐殺館、ベトナムにおける朝鮮兵の現地女性強姦殺害、老人子供への残虐行為とか発信しましょう。
韓国に筋の通らないODAを渡すぐらいなら、ベトナムに虐殺記念館を建てるための寄付をしてあげたいですね。大体、中国の館(南京大虐殺)は、日本人(社会党)がお金を出して建てさせたんだから今度はその逆バージョンを。

 

日蓮と蒙古大襲来 1958 元寇

当時の娯楽映画だし、朝鮮兵たちの残虐行為は描けてませんね。妊婦のお腹を踏み潰し、胎児を引きずり出したりしていたのです。

まあ、いずれにしても日蓮聖人は、元寇とその手下の朝鮮兵を敵として戦ったお方。朝鮮カルトな教団がその名を掲げる事自体が矛盾なんですよ。会員の皆さま。

要するに当時底辺にあり多くが極貧だった朝鮮人を信者に取り込みながら大きくなったのが日蓮正宗の護持団体そーかそーだよ学会だったわけです。
学会では、海外の信徒らも日蓮正宗の大石寺に送り込んでお布施を納めさせ、また大作さんは日本人含む海外からの信徒にはお小遣いを大枚に渡して、信者を感激させてたのですが、何の事はない信者からの寄付金のごく一部返還。新興宗教では、基礎でやられる信者ころがしの手口ですワ。還元であり、また次の寄付への火種を、あたかも恩恵のように渡すんです。
で、社会の底辺にある人を持ち上げる。水商売の人が底辺という観念もどうだか、だけどたとえばホステスさんたちを、「日本外交の最前線にいるおもてなし隊」(正確な文言忘れた、以前取材してみた)とか持ち上げて、夜のおねーさんたちは、盛り上がり会長先生(当時)への忠誠を誓うわけ。
主婦の人たちは苦い顔してるけど、会長先生のおっしゃることだから、何も言えないし。

そのうち、図体の大きくなりすぎた学会と、布教に名と権威を借りていた大石寺が対立、別れたわけですが、大作さん、本当はご本尊は何でも、良かったのだと思います。日蓮聖人をスターに売りに出た組織を継いだので、上人をアピールしただけ。教理に背くところは「文底秘沈」で逃げながら。

まあ巧みですよ、大作さん。すご~く上手。今は生死もわからぬけれど?
でも、歴代委員長は軒並み引きずり降ろされ、仏敵呼ばわりされるのはそーかそーだよ学会の業みたいなものですね。

現在も、山口那津男 氏が仏敵呼ばわりされ、もはや公明党と学会の分離状態が始まってるでしょ。

朝鮮カルト、そーかそーだよ学会の連中と中韓左翼が、反対してるから安保法制案はいい法案なんです。

しかし、映画は1958 年製作だって、終戦後わずか12年後に凄いですねえ、超大作。奇跡的な復興と足取りを同じくしての映画でしょう。今日本はこんなの出来ないかも。
CGでは出来るけどそういうものでもないし・・・・・。

アートとしての日本映画もこの頃が評価が海外で高かったですね。
北野武なんて小粒だし。
朝鮮人の映画監督が組織のトップにいて、反日局NHKで反日コメント出している間は、日本映画もみすぼらしいかもしれません。本当に「ありとあらゆるところ」に入り込まれてしまいました。

日本を少しでも取り戻しましょう。

安倍政権を当分、支えましょう。

心は常に日本誕生のあの頃に、戻しつつ繋ぎつつ。

 日本誕生

 この頃のほうが、日本人まだまともだったかも?

 

転記ここまで。


「安倍総理談話全文」大切だから、保存します(23)。BBの覚醒記録より

2017年09月01日 | 皇室
  • 皇室ブログの第一人者、というよりも、日本を愛するすべての日本人を代表するブログ、

    「BBの覚醒記録」が凍結されています。

    ここに至るまでの事は、ネット上で様々人口に膾炙しているので、省きます。

    ここでは、いろいろな柵(しがらみ)を取っ払って、

    私(ひげ坊主)の心に、とりわけ残る記事を採録します。

    日本人が、日本人であり続けるために。

    ※文字レイアウト、キャラクターの使用、写真の追加などは、ひげ坊主の恣意です。

  • 今回は、一昨年(平成27年)の8月に、安倍首相がアメリカ上下両院合同議員総会で演説した内容です。

  • 日本を取り巻く現状、これからの課題と心構えが、コンパクトにまとめられていて、日本人が忘れるべからざる指針となっています。
  •  

     以下、転記。

  • 安倍総理談話全文(初出08/14/15)

 

 

侵略 植民地支配 反省 謝罪

と要求された言語は、ハイ入れてみました、程度で
ほぼ言わなかったに近い、巧みな弁舌でした。
丹念な推敲の跡がうかがえる、構成も語彙の選択も良い
文章でした。

これで、天皇陛下が妙なこと仰らなければ、ひとまず70年目はクリア。
でも、どうせ皇后陛下ともども、皇太子殿下も自虐史観左翼なら、はっきり仰っていただいて国民を驚愕させ、眠りこけた自称保守たちの目を醒まさせてくださったほうがいいのかも、と一抹思ったりもしないわけではありません。

以下、安倍総理談話の全文です。

 

 

談話全文

終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。

日露戦争はアジアやアフリカを勇気付けた

百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。

その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

日本は行き詰まりを力の行使によって解決しようとした

当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。

その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

そして七十年前。日本は、敗戦しました。

痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます

戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。

戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。

何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。

これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

事変、侵略、戦争

事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。

歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないもの

こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。

ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。

ですから、私たちは、心に留めなければなりません。

戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。

戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。

そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。

謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない

寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。

日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす

そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。

私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。

私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。

ブロック経済が紛争を生んだ

私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。

繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。

積極的平和主義の旗を掲げ、世界の平和に貢献していく

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。

平成二十七年八月十四日

内閣総理大臣 安倍晋三

 

転記ここまで。