とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

とんねるずイズム4「偶像」

2011年12月02日 01時31分29秒 | とんねるずコント研究


『新少林寺』を観てからこのかた、すっかりアンディ・ラウにハマっています。
20年くらい前から知ってるスターなのに、いまさら目覚めるなんてことあるんですね。わからんもんです。まるで、ただの幼なじみだと思ってたアイツが急にかっこよく見える、みたいな。古い少女漫画のストーリーみたいで、アンディ・ラウが正統派の二枚目だからますます笑えてしまう。

アンディが役者だけでなくポップシンガーとしても超人気者だということを、今までまったく知りませんでした。歌も映画もやれる香港スターというと、レスリー・チャンやジャッキー・チュンのイメージはあったけれど、なぜかアンディはレーダーにひっかからなかった(なさけなや)。こんなに歌いまくり踊りまくる人だったとは・・・!

劉徳華 - 珍愛舞台 MV


これは2010年、つまり昨年作られたミュージックビデオで、アンディは48才か49才。
絵に描いたようなスーパースター、スーパーアイドルという感じではありませんか!?

そう、アンディは“アイドル”だった。おくればせながら初めてそれを知って、いろんなことが突然腑に落ちた。

いままでは彼に興味をひかれることはなかったんです。ただ男前なだけのおもしろみのない役者だと思っていた。でも、彼は“アイドル”なんだ!コンサートのチケットは即完売。バカでかいステージで3時間も踊り狂い、何万というファンを熱狂させる王子様。そのうえ芝居もやり、賞も取り、慈善事業にも熱心に取り組む。女性ファンだけでなく男性からの支持も熱い(同性ファンが多いのはスーパーアイドルの証)。50才になってもまだ王子様でありつづけるアンディは、そんな“アイドル=偶像”だったのだ。

それを理解した瞬間、たちまちアンディ・ラウを好きになってしまいました。ハンサム過ぎて笑えるほどの二枚目ぶりや、個性の薄い芝居、優等生すぎるプロフィール、わたしには欠点と映っていたそれらの要素のすべてがおさまるところにストンとおさまり、突然キラキラと輝き始めたのです。

アイドルとは何か。
世界に冠たる“アイドル大国”である日本は、おそらくこの問いがもっとも真剣に議論されている国でしょう。ネットをちょっと検索しただけでも、硬軟とりまぜたアイドル論がたくさん見つかります。そのほとんどが、自分の愛するアイドルの魅力を論じたいがため、そしてそのアイドルへの自分の深すぎる愛のナゾを解き明かしたいがために、孤独な考察を重ねているように見える。

そんな人たちへの敬意の意味でも、アイドルの定義にここで中途半端に立ち入るつもりはありませんが、しかし彼らに一抹の共感をおぼえずにいられないのはやはり、自分自身がこのブログを始めたきっかけもまた、とんねるずという“アイドル”への愛ゆえではなかったろうか、と思うからです。(どうやらアイドルを語る上で「愛」という言葉は特別な意味をもつ“用語”であるらしいのですが、わたしはよく知らないので、ここでは普通の意味で言ってます。)

特に最近、自分の中で、アイドルという存在の良さ、おもしろさみたいなものがだんだんわかってきた、ということもあります。といっても、ジャニーズ、ハロプロ、おニャン子、AKB48といった「集団アイドル」にはいまひとつ興味をそそられない。だからいわゆる「アイドルヲタ」には自分は絶対なれないでしょう。わたしが惹かれるのは、若くしてアイドルと呼ばれ、スーパースターとなり、時代を牽引したあと、年齢を重ねてもなおアイドルであることをやめようとしない、そういう特殊な人たちです。

さて、ここでひとつ考えねばならないことがあります。
とんねるずは、“アイドル”なのか?
あるいは、すくなくともアイドルだった時代はあったのか。

この問題をかんがえるとき、まずたちはだかるのは「芸人」というアイデンティティ。つまり、お笑い芸人はアイドルになりうるのか、という問いです。

芸人のアイドル化は、けっしてとんねるずが最初だったわけではない。若くてイキのいい芸人に若い女性が黄色い歓声を浴びせるというのは、いつの時代にも変わらない現象だったはずです。クレイジーキャッツ、ザ・ドリフターズ、コント55号、彼らはみなアイドル並みの人気があった。関西では「ヤングおー!おー!」が吉本芸人のアイドル化に貢献した。若い頃のあのねのねと中田カウス・ボタンの人気は尋常ではなかったらしい。ずうとるびやザ・ハンダースといった若いコメディ・グループもいた。MANZAIブーム、「オレたちひょうきん族」が輩出した芸人たちも、みな若い時代をアイドルとして過ごした。

・・・とんねるずが登場するまでは。

とんねるずが芸人とアイドルの壁を打ち破った、ということはこれまでもしばしば指摘されてきました。オールスター大運動会でノリさんがアイドルをさしおいて優勝したというのが、そのもっとも象徴的な出来事でした。アイドルだろうと役者だろうと、とんねるずにとっては学年の上下だけが相手に対する態度を決める唯一のものさし。先日もハンマーオークションに登場したブラッド・ピットを「オレらより3学年下」だと言ってましたが、とんねるずにとっていまだにこのものさしが絶対的な(あるいは最低限の)意味を持っているのね、と笑ってしまった(ちなみにアンディ・ラウはとんねるずと同学年でデビューの時期もほぼ同じ)。

お笑いとは無関係の事務所AtoZに所属し、スタイリストをつけ、歌を出し・・・とんねるずはそれまでのお笑い芸人のパラダイムを完全に変えてしまうような規格外の活動をバンバン打ち出しました。それなら、とんねるずは、この時点で“アイドル”になっていたのでしょうか?

おそらく答えはYesでもありNoでもある。とんねるずのアイドル的なふるまいは、むしろアイドルのパロディになっていた。「天使の恥骨」をはじめとする歌や、コントのネタで、とんねるずはさんざんアイドルをからかっています。だから、おそらくとんねるずの意識の上では、自分たちはアイドルではない、アイドルなんかにはなりえない、と考えていたのでしょう。反=アイドルであることで芸人としての自分たちの立ち位置を守る必要も感じていたかもしれない。

ところが、その意識に反して、彼らの活動はまぎれもなくアイドルのそれでした。武道館や東京ドームを満杯にし、派手な衣装とステージングで客を熱狂させる。グラビアを飾るときにはむしろシックな衣装に身を包み、笑い抜きでかっこいいポーズを決めてもみせる。

そして、重要なことは、そういった活動が以前のたくさんの芸人たちのように若い頃だけの一過性のものじゃなく、長期間にわたってコンスタントに続けられた、ということです。野猿までも含めていいのだとすれば、とんねるずの“アイドル活動”は実に15年以上にわたって維持されました(ただ、野猿はアイドルよりアーティスト寄りだったと思いますが。この違いも実はけっこう重要かもという気はする)。

11月24日放送の「おかげでした」で、「2億4千万の瞳モノマネ歌合戦」という企画がありました。神奈月、清水ミチコ、モト冬樹といった一流モノマネ芸人さんたちが渾身のネタをやりきってくれたのが非常におもしろかったのですが、ここでノリさんが発した「なんかこの番組っぽくないね」という一言が印象に残りました。

そう、とんねるずの番組では、名人芸や完成された芸が披露されることはないし、またされてはならない。なぜならとんねるずとは、いつまでたっても未完成なままの存在だから。これはまさに“アイドル”のありかたそのものです。

アイドルは、何事も極めてはならない。あとすこし手を伸ばせば“芸術家=アーティスト”の域に達する、その一歩手前に永遠にふみとどまっていなくてはならない。たとえその力量があったとしても、あえて“アーティスト”にならない道を選ぶ。アイドルは、完璧に洗練されてはならないのです。
(英語の”Idol”のもうひとつの語義が「怠け者」であるのも、アイドルの持つ本質と何か関係があるのかもしれない・・・あ、ちょっとうまいこと言いすぎ?)

そういう意味で、とんねるずは、本質的にアイドル的だと言っていい。“アイドル活動”そのものはお休みしているとしても、本質的なアイドル性を彼らはまだ失っていないのです。芸人でもあり、アイドルでもあり、同時に、そのどちらでもない。この正体不明ぶりこそがとんねるず。彼らがそのありようを崩すことはけっしてありません。

もしかしたらとんねるずは、芸人の枠に縛られるより、むしろもっと“アイドル”の自覚を持ってきても良かったんじゃないか。そう思うことがあります。

長年アイドルをやりつづけている人たちというのは、アイドルとしての自己演出に長けている人たちでもある。その頂点にいたのがマイケル・ジャクソンでした。キング・オブ・ポップであるということはすなわちキング・オブ・アイドルと同義です。だから、世のスーパーアイドルたちはみんなマイケルファンなのです。

アイドルを自己演出することは、決して悪いことじゃない。アイドル=偶像こそが普遍性をもったシンボルとして大衆をユナイトする力を持っているのですから。スーパーアイドルであればなおのこと、偶像は“アイドル”を超えた“イコン”となって、時や空間を超えた象徴的存在にもなれるのです。

しかし、とんねるずは、おそらくそうするにはあまりに謙虚すぎた。芸人としてのアイデンティティを大切に思う気持ちのほうが勝ったのかもしれません。それに、反=アイドルを標榜しながらも、彼らはアイドルが大好きでもある。稀代のスーパーアイドルである松田聖子を「プリンセス」としてかつぎだすとんねるずは、アイドルという存在の前にあまりにも謙虚だ。それは、とんねるずがアイドルの文化的・社会的価値を熟知していることの証でもあります。

そんな不器用なところもまた、われわれはどうしようもなく愛してしまうのですが・・・でも、そんなわたしの想いのほうがきっと狭量にすぎるのでしょう。とんねるずは時の試練に耐えて、特異なスーパーアイドルとして演芸史にその名を刻んでゆくことは、もう確実なことなのですから。

ハリウッドでもっとも顔の広い男、映画監督のピーター・ボグダノヴィッチが書いた本に『私のハリウッド交友録 映画スター25人の肖像』(遠山純生訳 エスクァイアマガジンジャパン)があります。コメ旬Vol.2で書かせてもらったジェリー・ルイスについてのコラムで一部引用したのですが(そういえばジェリー・ルイスも永遠のアイドル芸人だ・・・)、今回はジェリー・ルイスの相方だったディーン・マーティンについて彼が書いた文章を紹介して終わります。“アイドル芸人”とファンとの関係とは、まさしくこういうものだ、と思う。


ディーンは私たちの青春期と成人期、私たちのかっこいい(クール)とおかしい(ファニー)に対する考え方のかくも不可欠な一部をなしていたのだ。・・・

ディーン・マーティンとジェリー・ルイスの映画とライヴ・テレビ・ショウを、思春期直前から十代後半にかけて初めて観て無条件に二人のファンになったおかげで、自分が彼らにノスタルジックな感情的愛着を覚えていることを白状しよう。もっともそれがポップ・カルチャーというものだったし、これからもずっとそうなのだ。歳を取っても変わらず心に響くのは、共に育ってきた人やものだということになりがちだ。人は演者の過去に憧れるだけでなく、自分自身の過去にも憧れるのである・・・








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5 コメント

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とんねるずとアイドル (FUJIWARA)
2011-12-03 23:19:06
とんねるずとアイドル
私もとんねるずにはアイドルというファクターが切っても切り外せないものだと、今まで考えてきました。2つの面に置いて。
まず1つは二人がアイドルだったこと。
私のとんねるずとの出会いは中学生でしたが、最初から私はとんねるず=アイドルだと思って見ていました。
芸人というよりバラエティ+アイドルという感じで、同じタイブだと「わらべ」「イモ欽トリオ」とかですかね。(もちろん面白さは段違いですが)

実際にアイドルと同じ土俵で実績をどんどん作り始めていました。
各種音楽番組での常連、高ランキング、大きなツアー、大きな会場、衣装、声援、明星、平凡 etc
ここまでアイドルと同じ事をやっているお笑い芸人は過去居なかったと思います。
「みなさん」以前は「コラとん」が全国的にとんねるずのお笑いを体感できる番組だったと思います。
が、あまりにもアイドルと呼ばれる人と同じ活動が多いので、お笑いという部分を忘れたのは私だけでは無かったと思います。

2つ目はアイドルとの競演です。
本格的に始まったのは、みなさん、生ダラでしょう。
とんねるず初となった大型バラエティの出演者は、お笑い芸人ではなく、チェッカーズ、小泉今日子、渡辺満里奈などのアイドルでした。音楽番組で競演した仲間でしたね。
アイドル+お笑いの競演は古くは「全員集合」「カックラキン」「見ごろ食べごろ」なんかは有名ですよね。アイドルが弄られるのが面白いんだと初めて感じた番組たちです。
二人が音楽番組でアイドル達と関わったことは非常にお笑いに結びついたと思います。
痛いアイドル、奮闘するジャーマネ、そしてアイドルにまとわりつくワンフー・・・
これはお笑いの現場では体験できなかったことでは無いでしょうか。

あと上に挙げた「全員、カックラ、見ごろ」などと決定的に違うことがあります。
人気アイドルに対して「体育会系」を持ち込んだ事。
薬丸テメー、チーマツがよ~。
壊れもの扱いしていたアイドルに対して「アイドルの裏側」の部分に踏み込んだ事。
タバコプカプカ吸ってんじゃねぇのか、本当は仲悪いんだよ。

自分たちはアイドルの領域にいるんですが、何故か純粋にアイドルと呼ばれる人達をライバル視して、本気でゲームやり勝ちほこり、もはや芸人がアイドルに勝ってはいけないなど、誰も言う人は居なくなりました。
アイドルに嫌われる事も平気でやりましたよね。
しかし二人はアイドル好きでしょうね。
好きだから嫌われる事をする心理があるのかもしれません。
また好きじゃないと絡まないでしょう。
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とんねるずと素人 (FUJIWARA)
2011-12-03 23:20:52
とんねるずと素人
「なんかこの番組っぽくないね」
ファイアーさんの仰るとおり完成された芸が披露されることは無いですよね。
「細かすぎる」しかり。
二人が好むのは昔からマニアックさだったり、王道ではない一部分をフューチャーしてみたり。

とんねるずは昔から名人と絡むより素人を絡むのを好みました。
スタジオに観客をいれたり、しゃべったり、弄ったり、「ねるとん」なんかはその代表例ですよね。
以前も書いたと思いますがお笑い業界、素人参加番組なんて少ないんじゃないでしょうか?
お笑いの人は五万といますが素人と絡んだ事の無い人も沢山いると思います。
とんねるずの場合はすぐノリさんがマイクを差し出して「どっから来たの?」っていうシーン浮かんできますね。

素人というキーワードは、どこかスタ誕出身の「魂」がそうさせるのかなと思っています。
素人参加番組から出てきた事をいつまでも誇りに思っていると同時にどこか「型破りで恐れをしらない素人が一番面白い」という事を思っているのではと思っています。

以上、私なりに思ったことを綴りました。
といっても書き方は違えどもファイアーさんと同じ考えを言っていると思います。
同じ方向でなければここのブログきません(笑)
長文失礼しました。
返信する
FUJIWARAさん (ファイアー)
2011-12-06 15:49:59
お返事が遅くなってごめんなさい。
いつもていねいなコメントをありがとうございます!

>何故か純粋にアイドルと呼ばれる人達をライバル視して

そうなんですよね。マジにライバル視してましたね。なんで?ってくらい(笑)
アイドルと完全に同じ土俵に立ってたのはとんねるずのレアな特徴ですよね。
他の芸人さんだと、なんとなくムリしてる感があるんだよなあ。
「おかげです」もアイドルが出てましたね。
だけど考えてみると固定客ばっかりだったかな。
シブガキ隊やマッチが出るってことはなかったですね。
事務所の問題かな?

>とんねるずは昔から名人と絡むより素人を絡むのを好みました

とんねるずと絡むと、素人さんまで輝いてみえるのが不思議ですね。
最近はなかなか素人と絡む機会はないですが・・・
なんとなく、素人さんの性質も変わってきたんじゃないかなとも思います。
最近はもっぱら後輩芸人さんたちが中心だけど、非芸人タレント、素人、スポーツ選手など、
異業種のひとたちとの絡みがもっと見たいというのは正直ありますね。
「前略、道の駅より」はその意味でうれしい企画です。

>同じ方向でなければここのブログきません(笑)

ありがとうございます(笑)
コメント欄は来て下さるみなさんのものですから、なんでも言っちゃってください。

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アンディファンなら・・・ (華子)
2011-12-07 17:19:53
初めてメールさせていただきます。アンディにハマられたとのことで嬉しくて・・・『新少林寺』素晴らしかったですね。ラストの主題歌はアンディが作詞しているのですよね・・・アンディのことをもっと知りたいと思われたなら、この雑誌がお勧めです。私は定期購読してますけど、HMVとかで買えます!この出版社、アンディの写真集も出していて、バックナンバーはアンディの表紙ばかり・・・「ASIAN POPS MAGAZINE」という雑誌ですが、貼り付けておきます。アンディのことまた書いてくださいね!待っています!

http://www.hmv.co.jp/product/detail/4250028
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華子さん (ファイアー)
2011-12-07 19:19:59
コメントありがとうございます。
今になって”華仔”のファンになるとは自分でも予想していなかったので、びっくりしてます。
わたしはシンチー迷でして、『賭侠』や『トリック大作戦』でのアンディとの共演は大好きだったのですけどね。

「悟」は何度聞いても泣けてしまいます。
名曲ですね。アンディの歌詞もすばらしいと思います。

リンクありがとうございます!
ほんとだ~可愛い表紙がいっぱい♪
写真集も出てるんですね。欲しいなあ~と思ってたんです。
「サイレント映画の復活」の記事でも最後にちろっとアンディにふれてますので、
良かったら見てみてくださいね。
http://blog.goo.ne.jp/eyan_fire/e/f995c01e2d203ccf771e404d26aa11a1
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