eu-balance〜インナーチャイルド・フラワーエッセンスセラピー〜

インナーチャイルドの勘違いを紐解き、自分の本質と軸を取り戻して、喜び溢れる生き方へのシフトをお手伝い

〜Adios Papa Mia〜パパ、ありがとう

2018年10月14日 | 介護・認知症

【パパ、おつかれさま&また会う日まで】 

父が8月末にこの世を去りました。介護ネタで散々登場していたので、四十九日が終わり、ご報告がてら綴ってみました。

長文なので、ご興味ある方のみ読んでいただければ幸いです生前の交誼に感謝申し上げます。

また、介護ネタはこれから介護に関わる方に役立てていただけるよう、追って少しずつ上げていこうと思います。

8月の終わりの晴れた朝、父が旅立っていった。

老人ホームの金魚すくいで24匹金魚をすくって一位になった、わずか5日後。

強靭な意志でどんなときも諦めないことが力を生み出すことをずっと見せてくれていた人の最期は、あまりにあっさりしていて、清々しいほどだった。 

 

 

戦前に生まれ、戦中は祖父の仕事の関係で青島に。ドイツ人が設計した美しい家に住んだことがきっかけとなって、建築家を目指したらしい。

 

 

戦争が終わるころ、戦火を逃れながら北朝鮮を通って、最後の引揚船の一つに乗って、命からがら日本に戻ったものの、疎開先の秋田ではあまりいい思い出がなかったらしい。家族が秋田に連れて行かれたことは一度もなかった。

 

終戦後、東京に戻ってからは、闇市にヤミ米を買いに行き、見つからないようにザックの内側にじゃがいもを敷き詰めて、その内側に米を詰めた話や、

高校時代大工仕事が趣味で、鉋を使いこなして自宅の離れを建てた話、台風が来るとなれば、口に釘をたくわえ、屋根や窓を補強した話

 

卵をとるために鶏を飼っていたのだけど、鶏も意外となついて可愛いんだ、と鶏肉はかわいそうで食べない主義になった話(結果、介護時代も施設を変わるごとに『アレルギーではないのですが、鶏肉は食べられません』と私が説明する羽目に)自分の世代ではテレビで聞くような話を、身近で聞かせてくれたのが父だった。

 

大学卒業後、超高層を学ぶため、ミース・ファン・デル・ローエが教鞭をとっていた、イリノイ工科大学の大学院に留学した。

 

運良く奨学金を2種類いただき、一ドル360円・外貨持ち出し規制がある時代に、クライスラーの大きな車に乗って、割と余裕のある留学生活を送っていたらしい。

 

 

亡くなって、葬儀で使う写真を探すために押入れの中から掘り出した、当時珍しかったキャノンの最新鋭のカメラで撮影されたカラースライドの数々は、まるで昔のアメリカ映画の世界のようで、なんだかワクワクした。

 

JALが日付変更線通過証明書なんてものを発行していた、アメリカ本土にハワイ経由でようやく飛行機で行けるようになった時代。

ミースやアメリカの友人と写真に映っていた父は、とても輝いていた。

  

 

父の影響で兄がアメリカに留学し、私も留学したいと言い出した時に、一番喜んでいたのは父じゃないかと思う。私がSmithに行くことが決まり、オープンキャンパスに一緒に行ったとき、『こんないい大学、自分が入りたいくらいだ』とはしゃいで大きな一眼レフを首から下げ、キャンパスの写真を撮っていた父を昨日のことのように思い出す

 

40歳過ぎで患った突発性難聴で片耳の聴力を失い、耳鳴り持ちだったため、父が帰宅したら、静かにするのが決まりだった。だから、小さい頃はちょっと父は近寄りがたい存在だと感じていた。

留学の話をし始めてから急に父と距離が縮まったように感じた。いつも、家庭に外国の風を吹かせていたのが父だった。

 

兄も私も日本に帰国した60代のころはとても元気で、なかなか面白いキャラになっていた。ずっとやっていた社交ダンスではなく、アルゼンチンタンゴを踊り始めたかと思いきや、アルゼンチンタンゴを歌い始め、毎年ライブを開いて、最後には有名なバンドネオン奏者の演奏を録音して自分のCDを作るため、ブエノスアイレスにまで行ってしまった。

歌手活動名はミゲール・ササキ。その頃から家族も親しみとユーモアを込め、ミゲールさんと呼ぶようになった。

 

 

70歳になったころ、1回目の脳梗塞を患い、そこから怒涛のリハビリ生活が始まった。入院してから夜中の間に症状が悪化し、左半身がほとんど動かない状態になった自分を、父は翌朝『カフカの変身のようだ』と例えた。

 

その後手探りで調べ、長島監督も入院していた初台リハビリテーション病院に転院。3ヶ月のスパルタリハビリを終えて退院するや否や、画期的な装具でリハビリを行っている病院が高知にあると聞きつけて、高知の病院にも3ヶ月入院した。

 

 

 

その1年半後に2度目の脳梗塞が、瞬きがようやくできる状態に彼を再度突き落とすことを知っていたら、あのときあそこまで追い込んだだろうかしかし、そんながむしゃらなリハビリさえも、父はどこか楽しんでいるように見えた。いつも困難の先にある何かを見据えて、どこからともなくエネルギーを生み出す人だった。

 

2度目の脳梗塞発症の朝、顔の片方が垂れ落ちているのを見て、私は即座に脳梗塞再発だと気付いた。しかし、数ヶ月前にペースメーカー手術を受けていたことが災いとなって、病院に搬送されたとき、心臓の検査に回され、その間にどんどん父の意識は遠のいていった。

あまりに待たされるので、立入禁止と書かれたドアを開けて、私は叫んだ。

『この顔見て下さい、心臓じゃないです、脳梗塞ですよ、早くして下さい!』と

 

結局搬送されてから、脳梗塞の治療が始まるまで何時間も経過してしまった。

脳梗塞は、治療が始まってからさらに症状が進んでしまうことはよくあることらしいが、脳幹の脳梗塞で症状が進みきった父は、意識がなく、集中治療室での治療が始まった。

 

発症から何日後だっただろうか。ようやく呼吸は安定してきたが、意識は戻らないままだった。そんなある日、出社前に病院に立ち寄り、父が歌っているアルゼンチンタンゴの曲をiPodに入れ、父に聞かせてみることにした。

 

Adios pampa mia (さらば我が草原よ)故郷を離れる人の歌だったと思う。その曲に差し掛かったとき、急に父が大声を上げて泣きだした。隣のナースステーションにいた先生や看護婦さんが、何が起きたのかと部屋に入ってきた。父の意識が戻った瞬間だった。

 

そこから1回目とは全くレベルの違うリハビリが始まった。重度の麻痺で首は縦に動かせなくても横には動かせる場合がある。

瞬きは自分でできる場合、瞬きでコミュニケーションを図るらしい。

こちらの言っていることはどうやら聞こえているとの判断。

『パパ、Noだったら首を振って、Yesだったら瞬きしてね』

と言って、Yes/Noだけでどれだけコミュニケーションが取れるかを試し始めた段階で初台に再転院となった。

 

転院時の評価で『言葉を話せるようにも、文字を書けるようにも恐らくならないでしょう。コミュニケーションボード(視線で文字盤をなぞる)でコミュニケーションを取れればよいかと思います』と医師に言われ、横にいた母は気を失いそうになっていた。

 

あの時、父が自宅復帰できるなんて、だれが想像していただろう。

施設を探し始めることを強く勧められたが、もう少し様子を見させて下さいと、私は断った。

しかし、本当は、この先どうなるかなんて私自身考えられていなかった。

父と母の両方のケアで押しつぶされないように、必死に前を向いて、ただただ、足を踏みしめるようにして、その日一日を過ごすしかなかった。

 

そんな状態でも、出来る機能をなんとか使ってリハビリしてくれた初台リハビリテーション病院。

 

 

約5ヶ月の入院期間で、口からものを食べ、ヘッドレストが付いていないタイプの電動車椅子をおぼつかないながらに自分で運転できる状態になって、なんとか自宅復帰が叶った。

 

もちろん、そこからの介護生活が大変の一言では言い尽くせないものだったのはいうまでも無い。

着替え、車椅子の移乗…170cmの父は、介護するには決して小さくない。電動車椅子だって27kgある。私もまだまだその頃は、勝手に犠牲のサイクルを生きていたから、辛いことも沢山あった。

 

『りさちゃん偉いわね』と近所の人に言われる度、私はなんだかモヤモヤした。この先どれだけ続くかわからない介護生活、そんな言葉で片付くもんか、と

 

ただ、父の入院中と打って変わって、父がいる家はなぜか明るかった。

自宅介護時代は、よく母とも喧嘩した。

母と喧嘩していると、父が決まって自由にならない発音で笑い泣きみたいな声を出して笑い始める。それを聞くと、おかしくなってしまって、母と私も笑いだし、喧嘩は終わるのだった。

 

右手だけがなんとか健常者の6割程度使える状態になった父の新たなプロジェクトは囲碁だった。一体Amazonでどれだけの囲碁の本を注文させられただろう。施設に残されてあっただけでもダンボール2箱分になった。

 

 

常に目標を探して、努力し続ける人だった。

亡くなる前の週も、囲碁ボランティアの先生に3級くらいに上達したと言われ、喜んでいた。

 

自分で寝返りも打てず、座り直しもできず、フットレストから足が落ちたら自分で直せない、放っておくと口からよだれが垂れてしまうそんな状態で約10年。

その状態で出来ること、楽しめることを探し続け、挑戦し続けた。

父は与えられた命を生ききった。

本当に最後の最後まで頑張った。

 

葬儀の前後、兄といろんな思い出話をした。

 

出生図に土星の逆行があって、幼少期に父と疎遠な感覚を持っているとか、情緒的繋がりの薄い家庭だったとか、つい最近までそんなこと思っててごめんね。

私は完璧に愛されていた。

子供の目線で、愛の定義を勘違いしていただけ。

インナーチャイルドって9割以上は勘違いだね。

 

いろんな気付きが怒涛のように押し寄せてきて、感謝の涙が数日止まらなかった。

 

亡くなる数日前、最後に会ったとき、父は金魚すくい一位のトロフィー代わりにもらったプラスチック製のワイングラスを指差し、『あげる』と言った。

 

私は、『パパが折角一位でもらったんだから、使えばいいじゃない。バナナミルク(父の好物で施設に入ってからも週に12度は差し入れしていた)飲むときに使わないの?』と聞いたのだが、父はなぜか頑なに『使わないからあげる、持って帰って』と譲らない。

私は、心の中で(なんだろう、変なの)とくすっと笑いながら、『分かった、じゃぁもらうね』とそのワイングラスを持って帰った。

 

 

葬儀が一通り終わり、私は山に登った。晴れ女のはずなのに、その時ばかりは登山道が沢のようになるほど、ひどい雨だった。

雨は浄化。水は感情の世界

 

 

山小屋でなかなか寝付けず、うつらうつらしているときに、ふと父にもらったワイングラスのことが頭を過った。

 

ワイングラスカップ

カップは愛や感情の象徴だったじゃないか。

そうか、父は最後に私に愛の象徴を渡してくれたんだ!

そう気付いたとき、また涙が止まらなくなった。

 

有終の美で金魚すくい一位とか、そのカップを渡すとか、まったく演出がにくいくらいじゃないの──そう直接言えないのが寂しい。が、きっと上でしてやったり、とニヤリとしているに違いない。

 

亡くなった瞬間の占星術チャートを見ると、これまた宇宙の計らいとしか思えない、美しい配置だった。出生時の天王星(逆行)に、トランジットの天王星が逆行で、寸分狂わず重なった、まさにその朝だったのだ。

これぞ本物の天王星リターン。

父はきっと古いパターンを卒業したのだ。そう、今世での課題をやりきったのだ。

父が去ってから、いろんなことを思い返しても、私も娘として後悔するようなことが思い浮かばなかった。

完璧ではなかったかもしれない。だが、私は父の介護をやりきったと思っている。

もちろん、もう話せないのも、宿題リストを渡されないのも、何か物足りず、寂しい。

亡くなった時にあたりに充満していた、射手座ステリウムらしい父の、意気揚々としたエネルギーも、もはや薄くなってきているのを感じて、それももちろん寂しくはある。

 

人が口を揃えていうように、四十九日が終わってから出てくる感情もきっとまだ沢山あるのだろう。 

 

だけど、こんな風に見送らせてくれて、やはり感謝しかない。

 

私は、あなたの子供で心底面白かった。

 

 

そして、がむしゃらに生きる姿は、本当に美しかった。

沢山の愛と学びと思い出をありがとう。

Adios papa mia! (さらば我が父よ)また会う日まで。


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