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純愛物語

2005-08-10 17:20:46 |  映画(サ~シ.)
昨年の夏、テレビで中原ひとみさんを見受けた。その時、彼女の48年前の「或る不良少年と不良少女の愛の物語」を思い出した。

愛は至上である。ゆえに不良者も真の愛を得ることによって不良性を脱皮していくと言いうこと。それから原爆症の恐ろしさ-。ひいては反戦への思想。それにこういう不良を発生させ、助長する社会への追求批判と、この作品に盛り込まれた意図は大きい。

しかし自分が何よりもショックを受けたのは不良という存在である。彼らは家庭的に薄幸の者ばかりである。それでも「意志が強ければ」と言ってしまえばそれまでだが、いくら強く生きようと努めても、温かい眼で彼らを抱擁する気が無い社会が存在する。

そのことをミツ子が求職に駆けずり回っても何処も雇ってくれない事実で訴える。実に恐怖の念に駆られるのは彼らを温かい目で育て更正させる筈の学園までも、真の理解、真の愛情を持って導かない職員が居るという事実である。

例えばミツ子が掏摸をやって収容された聖愛学園で、徐々に原爆症状を現していくのに頭から不良の怠随と決めつけ、かんかん照りの運動場を走らす職員の軽はずみである。ただし真面目な一女性教官の涙ぐましい努力には相当の時間を割いており頭も下がる。

題名の純愛は、二人への愛の他に、この小島教官の愛も含まれていると思えるぐらいだ。私は太陽族を否定する。有産階級のこれら不良には嫌悪以外の何ものもない。だが、この作品に登場する不良には愛の必要性を大いに感じるのである。

中原ひとみと江原真二郎は親密な演出にも助けられ好演である。上野の山をバックにミツ子が愛を感じていく動機、貫太郎がそれを受け入れていく過程は申し分なく、優れた恋愛心理描写といえよう。症状も重く病床に伏すミツ子が「私が今まで人から贈り物を貰ったのは、あの人からのその靴だけなのよ」と嗚咽する言葉に、大写しされる寝台下の一足の白ズック-。

此の映画で最も印象に残る感動味溢れたクライマックス・シーンだ。彼女が日々悪化していく様子も、極めて自然にというより恐怖的で、元気一杯に上野の山を走っていた彼女の頬がいつの間にか血の気が引いて青白くなっているのにはぞっとするような迫真力がある。

これは臨終間際、どす黒いハナ血を出す悲しいショットと共に、色彩映画でしか表せないショッキングな効果だ。また治療を受けようにも「1本3000円(注、1957年当時の貨幣価値)もする注射」という現実に、今井正監督は、現在社会の福祉対策の如何に困窮しているかを鋭く訴えている。

彼が映画芸術への意欲と共に、社会性を常に植え付けているのは威とするに足る。シネスコという新形式に取り組んだ彼は、この面でも冒頭の上野の山の構図、殊に二人が歩んで行く夜景に効果を現している。叙情味もあり、牧場へピクニックするシーケンスは二人の溢れ出る幸福感がスクリーンの外に零れるばかりだ。

また帰途、とある図書館の中から聞こえてくるショパンの「別れの曲」に耳を傾けるショットは、彼女の死を暗示するが如きでセンスもある箇所でもある。ただ、少し甘きに過ぎはしないか。でも、貫太郎が病室に駆けつけた時、看護婦が既にベッドの片づけをしているショットには実感的な衝撃が走るし、彼が泣きながら夕暮れの街を彷徨うラストには、胸が張り裂けるような共感を覚える。

斯様に優秀な作品なのだが、見終わって何かもう一つすっきりしない感が無いでは無い。それは、学園等、殊に女子学園の方に時間を掛けすぎたためでは無いか?脱走が原因の喧嘩の場面等、少し諄すぎる。もう少し無駄な箇所を切り詰めれば、主題が一層強烈なものとなったであろう。しかし1957年邦画界の有終の美を飾るに相応しい佳作ではある。
(以上1957年当時の原稿まるごとコピー)
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