しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 Ⅰサムエル2章 <エリ家の罪>

2020-03-25 | Ⅰサムエル記

水仙

「息子たちよ、そういうことをしてはいけない。私は主の民が言いふらしているうわさを聞くが、それは良いものではない。」(Ⅰサムエル2:24新改訳)

祭司エリの息子、ホフニとピネハスは神の宮で父と一緒に神に仕えていたが、よこしまな者たちで、その悪徳ぶりは国中のうわさになっていた。▼父エリは心配し、息子たちをいさめたが、二人は父の言うことを聞こうとしなかった。国民に神への敬虔を教えるべき祭司の惨憺(さんたん)たる親子関係がうかがわれる。もしエリが心から主をおそれて生きていれば、息子たちの不義を絶対に許さなかったであろう。祭司の罪はイスラエルの存亡にかかわるものだから。▼ところが彼は「やんわり注意した」ものの、それ以上追求しなかった。これがモーセやピネハス(民数記25:7,8)だったら、たとえ息子でも殺していたにちがいない。子どもたちが救われ、永遠のいのちを持つためなら、親としてできることは何でもする。この信仰的気概が今の私たちにも希薄といわざるを得ない。その意味で、エリ一家を笑うことはできないであろう。◆キリスト者の親は子どもを一生懸命教会に連れて行く。親子で礼拝に座っている姿はじつに喜ばしい光景である。ところが、中高生や青年になるとその子らのほとんどがこの世の魅力にひかれ、洗礼を受けた者でさえ親と教会から離れ去り、十年もすると見るも無残な未信者になって欲望の世界に埋没していく。顔から光は消え、目は生気が失われ、心の腐敗を物語る人間となり、たまに教会に来ると、あまりの変わりように牧師や年配者を驚かせる。◆祭司エリの姿を他山の石とすべきである。どうして彼が子育てに失敗したのか、サムエルがなぜ「主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した」(Ⅰサムエル2:26同)のか、親であるエリとハンナのどこがちがっていたのか、そのことを御霊様に教えて頂き、ハンナの足跡を辿らなければならない。人生の終わりに泣かないためにも。