しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 伝道1章 <知識を増す者は悲しみを増す>

2017-10-19 | 伝道者の書

好古園「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。」(伝道1:18新改訳)

現代社会で一日に新しく加えられる知識の量は、大昔の百年をゆうに超えるという。▼私が子供の頃、ちょっとした家には百科事典などがずらっと並び、すごいものだと感心したのだが、今ではインターネットで少し調べものをすれば、すぐ数十冊分の知識、情報を手にすることができる。しかし考えてみれば、それらの知識はいわゆる情報に過ぎず、人の心の深い部分にいのちとして届くものではない。伝道者ソロモンが言うことは本当である。▼イエス・キリストはこれとまったくちがう。パウロが、「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ2:3同)と述べるように、このお方こそ活ける知識、活ける知恵そのものであり、人を愛と喜びに満たすことができる存在である。この世の知恵、知識に疲れ果て、空しさに打ちひしがれている人よ、「わたしのもとに来なさい」と呼びかける主のところに行こう。◆ある意味で、イエス・キリストも空なる存在であった。「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました」(ピリピ2:7同)とパウロは述べている。ところが、ソロモンの空とイエス・キリストの無とはちがう。両者を器に例えれば、ソロモンの空は知識、繁栄、豪華、快楽をいっぱいに盛った器の姿であり、それが空しい、と言っているのである。◆イエス・キリストは人となられたとき、器を御父への従順と信頼で空け渡し、無にひとしくなり、その結果、御父と御聖霊がその内側を臨在で満たしたのであった。おなじ人の有様をしていながら、ソロモンの内側は自己賛美、自己賞揚であり、イエス・キリストの内側は天の御父そのものであった。なんと大きな両者の違いであろう。すべての人がうらやむソロモンの栄耀栄華、しかし彼にやって来た自覚は「空の空、空の空なるかな」であった。だから主は、「彼の栄華は野の花一輪にもおよばない空しいもの」と言われたのである。◆人は、主の御救いにあずかり、真の意味で空の器になるべきである。そうすれば、とこしえの父の愛がそこを満たすであろう。パウロが、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4:7同)と言う通りである。