しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <御座は火の炎>

2022-09-11 | みことば静想
「やがていくつかの御座が備えられ、『年を経た方』が座に着かれた。その衣は雪のように白く、頭髪は混じりけのない羊の毛のよう。御座は火の炎、その車輪は燃える火で、火の流れがこの方の前から出ていた。幾千もの者がこの方に仕え、幾万もの者がその前に立っていた。さばきが始まり、いくつかの文書が開かれた。」(ダニエル7:9,10新改訳)
これはダニエルが見た最後の審判の光景である。年を経た方とは永遠の神・天の御父のことで、はげしく燃える火焔の宝座に着座し、そこから火の流れが出ていた。想像するだけですさまじいものである。そこに有史以来の人間という人間が立ち、審判を受けてありさまは、ダニエルを驚きと恐怖で満たしたにちがいない。▼パウロも記している、「その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです」(Ⅰコリント3:13同)と。やがて私たちはこの神の前に立つのである。人が地上生涯であのことをした、このわざを成し遂げた、などと意識しても、それが炎のような神の前でどれほどの価値を持つのか、よく考える必要がある。おそらく人が積み上げたものは、ほぼ完全に、すべて焼け尽きてしまうと思われる。

しかしただ一つだけ「焼けないもの」がある。それは天の神と同質の火炎を宿し、その火に包まれた地上生涯を送ることである。その火とはすなわち、人となられた御方の中に燃えていた火である。人間はナザレのイエスをあなどり、さげすみ、大工の子として卑下した。当時の学者、パリサイ人、議員たちは心にある罪がわざわいし、このお方が太陽よりも白熱した愛、どんなことをしても滅び行こうとしている罪人を救おうとの愛に満ちて、十字架にご自身を宥めのそなえものとされた事実が見えなかった。もし見えていたら、栄光の主を十字架につけなかったであろう(Ⅰコリント2:8)。▼だが人がもし、自分の高ぶりに目が開かれ、十字架のあがないを心から信じるなら、新しく生まれ、三位一体の神が内住されるという測り知れない恵みにあずかる。すなわち、神の炎を内に宿す、というか炎そのものに変えられるのだ。「しかし、主と交わる者は、主と一つ霊になるのです」(Ⅰコリント6:17同)とパウロが言うとおりに。こうして私たちは至高者の前に、キリストの愛の炎に包まれて立たせていただくことになる。永遠の審判からあがなわれる道はこれ以外にないであろう。