しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の歌 <シオンの歌を>

2022-02-21 | 詩篇

「それは 私たちを捕らえて来た者たちが そこで私たちに歌を求め 私たちを苦しめる者たちが 余興に『シオンの歌を一つ歌え』と言ったからだ。」(詩篇137:3新改訳)

この詩篇はバビロンに捕えられていったユダヤ人たちが、そこでどのような扱いを受けたかを示す数少ない詩のひとつ。▼征服者たちは、あわれにも捕虜奴隷となったユダヤ人たちを笑い、おそらく宴会のなかで「シオンの歌を歌ってみろ」と命じたのだろう。かつてはエルサレム神殿の中で聖なる神にささげた賛美、身をきよめ、盛装し、敬虔のかぎりを尽くして御名をほめたたえたレビ人の聖歌隊であった。その歌を酔っぱらった人々のあざけりの中で歌わなければならなかったとは何という屈辱、はずかしめか。▼本篇には悲痛な憤り、神を知らない偶像礼拝者たちへの反発が渦を巻いている。7~9節はその現れとして記されたもので、たんに復讐を求めた祈りと思うべきではないだろう。ともあれ、このような悲しみの中で七〇年、選民たちは帰還を祈り続けたのであった。

「もしも 私があなたを思い出さず エルサレムを至上の喜びとしないなら 私の舌は上あごについてしまえばよい」(6)との一節には、ユダヤ人たちのエルサレムに対する思慕がこめられ、読む人の胸に迫って来る。▼だが私たちキリスト者にとっては、エルサレムはあのパレスチナのエルサレムではない。天にある永遠の都・キリストのはなよめなるエルサレムである。それは世の終わりに、新天新地の出現とともに、神のもとを出て地上に降って来る。ヨハネは圧倒的な美しさと威容を見せられ、感動のうちにそのありさまを黙示録21章に記した。旧約の信仰者たちは、滅亡した都の回復を願い、思いのかぎりをつくして詩篇に歌った。▼それなら、まして私たちは彼ら以上に、天の都エルサレムの降下を願い、心が焼けるばかりになって当然ではないだろうか。それなのに、世界の教会から「御霊と花嫁が言う。『来てください。』これを聞く者も『来てください』と言いなさい」(黙示録22:17同)との切々たる叫びが聞こえないのはなぜか。ユダヤ人たちはこの二千年間、西壁の廃墟でエルサレムの回復を祈り続けている。では私たちキリストのはなよめは、どこでどのように彼ら以上に、この二千年祈って来たのか。「主よはやくおいでください」と。貴方様と共に永遠の都エルサレムに住まう日が早く来ますように!と。