しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に  <くずれたエリコの城壁>

2014-11-02 | みことば静想

晩秋の菊「信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。」(ヘブル11:30)

神はエリコの町を攻略しようとするヨシュアにふしぎな命令を与えた。それは七日間、町の周囲を回り、最後にはときの声をあげよ、というものであった。このような戦闘方法は、歴史上見たことのない方法である。だがヨシュアは黙って七日間、神の指示に従い通した。

ここでもし、彼が普通の戦いをしかけていたらどうだったか。おそらく城壁を攻め上るだけで、犠牲者がたくさん出たろうし、突破して町に入ったとしても、さらに流血の事態になっただろう。しかし彼が信仰により、神のことばに完全に従ったため、ひとりの犠牲者もなく完璧な勝利を得ることができたのであった。

私たちキリスト者も、この世にあり、信仰の戦いの渦中に置かれていることは、パウロの「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ書6:12)とのことばから明らかである。相手は知恵において人間にはるかに勝る存在であるから、エリコ戦よりはるかにむずかしいと覚悟しなければならない。

そこに必要とされるのは、どこまでも主を信じる信仰と、徹底的な従いである。自分の知恵や経験に頼り、神を見上げることをやめるなら、主の栄光を現わすことは期待できない。反対に信仰によって従い通すなら、いかなる時でも、おどろくべき栄光が現されるであろう。もちろんキリスト者にとり、従順の模範は「新約のヨシュア=イエス」であられる。このお方があなたや私の内に、従順の霊として住みたもうことを信じなさい。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:6~9新改訳)