しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <神のことばと人間のことば>

2022-03-12 | Ⅰテサロニケ

「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」(Ⅰテサロニケ2:13新改訳)

私たちにとって最大の幸福は、「聖書は神のことば」と信じられたことにある。なぜなら、そのこと自体、自分の力によるのでなく、聖霊の感動によってもたらされた奇蹟にほかならないからだ。▼日本は書物の国といわれるほど本がたくさんある(電子化された本も含め)。識字率が高いのはこのためであろうし、文化水準も低くはない。だが半面マイナス面もあると思う。なぜなら書物に埋もれていると、聖書はかぎりなくある本の中の一冊にすぎない、と考えるからである。▼しかしほんとうは、聖書とそこに記された福音だけが人にとって永遠に大切なもの、宝の中の宝である。テサロニケの信者たちはパウロの伝えた福音をそう信じ、それまで頼っていた世の中の神々を捨ててしまった。救いの喜びはそれほどのものだったのである。

主は仰せられた、「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マルコ13:31同)と・・。天地が消え去るとは、人間が歴史の中で築き上げてきたあらゆる事物が消滅することを意味する。そのときは、具体的にいえば、黙示録にある最後の審判の日である。「また私は、大きな白い御座と、そこに着いておられる方を見た。地と天はその御前から逃げ去り、跡形もなくなった。」(黙示録20:11同)▼そしてそこに、ほんとうの本が出現する。「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。・・・いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20:12~15同)▼数々の書物とは、イエス・キリストが地上でお語りになった福音のことであろう。主は御父の心をそのまま語られたのであるから、数々の書物とは天父の御心が書物として天に存在していることである。私たちが地上で手にしている聖書の本体と思ってよいのである。いずれにせよ、この上なく厳粛な事実である。日本人が何気なく暮らしている生涯の行いには、憲法と法律という網がかぶせられている。これに違反すれば罰せられるのとおなじように、霊魂には「天にある永遠の書物」に記された神の御心の網がかぶせられている。人間は一人残らず、これに従って審判されるときが来る。▼だから与えられた地上の生を、罪と欲のおもむくままに過ごすべきではない。キリストのあがないに感謝し、天父から与えられた愛と恵みを満喫しながら真面目に生きるのが当然なのだ。永遠の悔いを残さないために。