しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 創世記16章 <イシュマエルの誕生>

2019-03-04 | 創世記

紅梅「サライはアブラムに言った。『ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。』アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」(創世記16:2新改訳)

あきらかにサライの言葉には、神への不信がこめられていた。「神は子を与えるとおっしゃったのに、一向にその気配はない」と。私はもう産めないからだになっている。ならば、奴隷女によって子をもうけても、私たち二人の子であることに変わりはないのだから、そうしてはどうか。そしてアブラムは、「サライの言うことを聞き入れた」のであった。▼ここにも不信仰がある。なぜなら、当時の社会通念では、正妻に子が出来なかった場合、他の女性によって子をもうけることがゆるされていたのである。アブラムは神のことばより、世の常識を重んじたわけである。しかし、もしここで「サライよ、神は必ず約束通りにしてくださる。だからどこまでも待ち望もう。」アブラムがそう言って妻の提言を毅然と拒否すれば、後の騒動は起こらなかったはずであった。▼アダムもエバの勧めるまま、禁断の木の実を食べた(創世記3:17)とあるが、よく似ている。やはり男性はどんなにつらくとも、自分と妻の間にイエス・キリストが立っておられることを、深く思うべきであろう。それが夫婦を罪から守る。「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。」(ルカ14:26同)▼もちろん、妻を憎むとは愛情を抱かなくても良い、ということではない。夫婦どちらかが、神のことば以上に何か、あるいは誰かのことばや考えを重んじた時、片方はそれを阻止すべき、ということだ。それが真の意味で夫婦関係の祝福を維持するのである。