しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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朝の露 <聖なる宮に向かって>

2022-02-22 | 詩篇

「私は あなたの聖なる宮に向かってひれ伏し 恵みとまことのゆえに 御名に感謝します。あなたがご自分のすべての御名のゆえに あなたのみことばを高く上げられたからです。」(詩篇138:2新改訳)

ダビデの時代、エルサレム神殿はまだ存在していなかった。それは息子ソロモンのとき建立されたからである。にもかかわらず、詩篇にはダビデがいつも神の宮を仰いでいた、と記されている。▼彼が見ていたのは天にある神の座であった。サウル王に追われ、ユダの荒野をさ迷い歩いたとき、またペリシテ人のところに難を避けて捕らわれの身となったとき、さらに息子の反逆により、死の危険にさらされた時、彼は天とそこにおられる神を仰ぎ、すべての助けを請い求めた。その心が詩篇に歌として記されたわけである。▼戦いにつぐ戦い、休む間もなく剣をもって走り回っていた彼が、なぜこのような深い霊性を保ち得たのか、普通では理解できない。ただひとつの答えは、ダビデを選ばれた神が恵みと憐れみのゆえに彼と共におられたから、ということであろう。▼この主こそ私たちの主と同じお方である。

ダビデの詩を思い巡らしていると浮かぶのは、夜遅く、または朝早く荒野や戦場でひれ伏し祈るひとりの武将の姿だ。彼にとって聖なる宮とは星空の彼方にあり、夜明けに目にした遠い山々の彼方であったろう。そしてそれは同時に、祈るうちに心に開かれてくる神の御臨在の世界だった。こうしてダビデは共におられるキリストの霊に捉えられていった。▼御子イエスは御自身を空しくされ、人となって地上に住まわれたが、朝早く夜遅く寂しき場所にひれ伏し、天の聖なる宮に向かって御父に祈られた。永遠の昔から父と離れなかったお方が、地上に来られたゆえに孤独を意識し、天に向かって祈られたとは実に不思議である。祈りとは神と我のあいだに距離をおぼえた人が、その隔たりを埋めたいとの欲求に駆られて取る行動ではないかと思う。私たちキリスト者は救われ御霊を宿したとき、祈りたいとの強い渇望を抱く。そして朝に夕に、主に向かってよびかけることを日々の喜びとする生き方に導かれる。▼それにしても、全能の神にして万物の源であるお方が大地にひれ伏し、涙を流しつつ祈られたゲッセマネの夜は、崇高な祈りの頂点というしかない。それはさらに十字架上の「父よ、彼らをおゆるしください」との祈りにつながっていく。そしてついには降臨された聖霊によって全時代のキリスト者の心に流れ込み、無数の祈りとなって天に立ち上り続け、御国を来たらせてください!との懇願に姿をかえて父の宝座に届いている。じつにイエス・キリストの再臨と復活世界の扉は、この雄大な祈りの渦潮によって開かれるともいえる。