しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <詩篇34篇>

2023-11-19 | みことば静想
「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに」(詩篇34篇表題)

ダビデはサウル王に追われ、やむを得ずペリシテ人の地に逃れた。彼はイスラエルの地に住むべき場所がなくなったからであった。人は自分の生きていく居場所がなくなったとき、もっともつらい思いをする。ダビデはサウルにねらわれる理由などひとつもなかった。ただ少年のときサムエルに油を注がれ、イスラエルの王と定められた、ただそれだけの理由からである。▼主イエスもダビデとおなじであった。マリアから生まれた時、はやくもヘロデ大王に生命をねらわれ、夜のあいだにベツレヘムを出立、エジプトに逃げなければならなかったのである。30代で公生涯に入られ、御霊によって荒野に導かれると、さっそく悪魔(試みる者)がやって来て誘惑し、主がそれに勝たれると、「悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた」(ルカ4:13新改訳)が、最後までつきまとい、贖いの計画を失敗させようとつけねらったのである。▼神に選ばれ、そのみわざを遂行する器として定められると、人はこの世に居場所がなくなる。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(マタイ8:20同)と主は言われたが、その御生涯はどんなに孤独でわびしかったことであろう。▼しかし、人は地上で居場所がなくなったときこそ、神の宝座に通じるたったひとつの場所、祈りと臨在の場所に行くことができる、というのも事実である。じつはそれこそが、神が聖徒たちから「地上におられる居場所をうばう」理由にほからない。たとえば族長ヨセフはヤコブ一家からそれをうばわれ、エジプトに連れていかれた。そして高官→地下牢とまったく生きる場所をうばわれたようなところを通ったのであった。▼ダビデもしかり、エレミヤもしかり、ダニエルも、その他のすべての聖徒たちが、この世では生きるに値するところと生涯をうばわれた。その結果はなにか?私やあなたが手にしている聖書である。そこに聖徒たちの生きた世界と主イエス・キリストの臨在の世界が現出して、「天地が結ばれているたったひとつの世界」が顕現しているのである。地上にいつあいだに、この幸いな居場所を発見させられた人ほど幸福な存在はない。