しげる牧師のブログ

聖書のことばから、エッセイを書いています。
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聖日の朝に <エジプトの宝にまさる富>

2024-09-29 | みことば静想
「彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。それは、与えられる報いから目を離さなかったからでした。」(ヘブル11:12新改訳)

ツタンカーメンはエジプト第18王朝12代目の少年王といわれ、BC1361年から10年ほど在位の後、若くして死んだ。あの大ピラミッドを造ったクフ王などとはくらべものにならない小さな存在である。▼しかし偶然その墓が発見されたとき、世界は驚愕した。盗掘をまぬかれた副葬品の数々が発見され、その豪華さが想像を絶するものだったからだ。現在それらはエジプトのカイロに陳列されているが、現代の貨幣価値に換算すると400兆円を軽く超えるといわれる。一人の少年王の副葬品ですらこのような財宝だったとすれば、何千年にわたって蓄えられたエジプトの宝物は、まさに天文学的な価値だったにちがいない。▼モーセが受けるはずだったエジプトの宝とは何であったか。彼は王女の子(養子)だったからファラオの位に就任できたかもしれなかったし、そうでなくても王宮の宝物、名誉ある地位、あらゆる快楽と贅沢、権力と名声を得たであろう。発掘されたツタン・カーメン王の遺品の数々はエジプトの博物館に展示されているが、世界の人々をおどろかせている。これを見てもエジプトの宝物がいかに豪華であったかがわかる。▼だがモーセは「エジプトの宝」に背を向け、イスラエルと共に荒野に出て行き、一生を過ごしたのだった。ヘブル書はその理由を「与えられる報いから目を離さなかった」ためだと述べている。では与えられる報いとは何か? 復活である。イエス・キリストの御復活に自分もあずかり、栄光輝く神の国に生きることから彼は目を離さなかった。だからエジプトを捨てられたのだ。モーセだけではない、死からの復活を知り、それにあこがれた信仰者たちは地上のすべてを捨て、迫害と困難に甘んじつつ生涯を送った。私たちもこの復活に招かれているのである。「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者からの復活に達したいのです。」(ピリピ3:10、11)▼黄金の棺の奥深く納められたツタンカーメン王のミイラも公開されている。死骸は棺からはほど遠い、あわれなものだ。人間の死をどんなに高価な金銀や宝石で包んだとしても、復活とは関係がない。モーセはその事実を目の前で見たからこそ、エジプトの宝に背を向け、キリストの復活を目指したのであった。