Tom kaj Tina、次の読書ノートである。Internacia Esperanto-Lernolibro por Infanoj とある。40ページほどの本なので1日で読んでしまった。前文エスペラントだから、少なくとも日本人がこの本だけで学習するのは無理だろうと思うが、講習会用には使える。大きさも手頃である。別冊で講師用の参考書もある。挿し絵がふんだんに入っているなど、子供の関心を引く努力がされている。
Tom と Tina は仲のよい兄弟。家庭や学校での日常生活を描きながらエスペラントの学習が進められる。これがなかなか楽しい。そして後半は2人の少し長い冒険である。2人だけで列車に乗っておじさんの家へ行く途中、怪しい男と同室になる。Tom はちょっとした策略でその男が泥棒だということを確かめる。途中で下車した泥棒を Tom が追いかけて・・・.ちょっぴりハラハラどきどきの物語。
エスペラントはたしかに一つの言語ではある。しかし、それを「生まれつきの言語」として教えることはどうなのかなと思い続けています。いつだったか、YouTubeで赤ん坊にエスペラントを覚えさせて、体の部分をさして"Kio estas tio?"と尋ね、赤ん坊が"orelo!"とかいっている動画を見たことがありましたが、これはただのデラシネを生み出しているのではなかろうかと思っています。
早いうちに外国語に耳を慣れさせておくことに関しては異論はありませんが、子供のidentityをどう考えているのかという疑問がついて回ります。私自身はSennaciismoというものは信用していません(Lantiは本当にSennaciistoだったんでしょうか。"For neuxtlarismon!"など調べてみたいと思っています)。エスペラントが普遍的な人生の基礎となるような慣習、風習、文化を真に持ち得ているのかということに関しては、私はかなり懐疑的です(かなりヨーロッパ寄りではないかと)。
とはいえ、早期外国語教育(エスペラント含む)については何がしか賛同てきるところがあるので、前期の思いとは矛盾するところがあり、思い悩んでいるところです。
denasakaについては議論があると思いますが、以前出会ったdenasakaは、「自分にとってエスペラントは自然だが、苦手だ」と言っていました。実際、ものすごく早く話すのですが、簡単な単語を知らなかったりするのです。
家庭でエスペラントでも社会に出るとエスペラントは使えませんから。
現在、私宅にフランスから母(日本人で、フランス人エスぺランチストと結婚したエスぺランチスト)と娘(生まれつきフランス語、日本語、エスペラントで育った)が居候していますが、問題はなさそうです。今、遊びにでかけているので、今晩直接聞いてみます。
日本人同士の結婚でも、生まれながらに父とはエスペラント、母とは日本語で育った例がありますがidentecoはどうだったか、知りたいですね。