エスペラントな日々

エスペラントを学び始めて22年目である。この言葉をめぐる日常些事、学習や読書、海外旅行や国際交流等々について記す。

1887年、ボラピュック

2018-11-26 | 読書ノート


 前回の続きである。「Zamenhof kaj Volapuk」にはボラピュクがどれくらい広がったのか、簡単に紹介してある。
 1884年、第一回大会が Friedrichshafen(ドイツ)で開催され、150人ほどが参加した。1885年にはオランダに20のクラブがあり、そのうちの2つには100人以上の会員がいた。1886年には9つの雑誌が刊行されていて、100以上のヨーロッパの都市で講習会が開かれ、そのうちのいくつかでは200人以上が学んだ。帽子・ワイン・鉛筆・ランプといった「ボラピュクグッズ」も販売された・・・。
 まさにボラピュク運動がその頂点に達しているときに、ザメンホフの第一書が現れた。ザメンホフは公式にはシュライヤーに対する深い尊敬の意を表しているが、その作品(ボラピュク)に対しては容赦なく批判している。"... tiu cxi lingvo, simile al la antauxaj provoj, mortos, alportinte absolute nenian utilon.:この言語はそれ以前の試みと同様に、全く何の役にも立つことなく死んでいくであろう"(Fundamenta Krestomatio/El la unua libro de la lingvo Esperanto)。ドイツの言語学者 Haupenthal は、第一書の表紙に示された「Por ke lingvo estu tutmonda, ne suficxas nomi gxin tia」(言葉が世界的であろうとするのに、ただそれをそう呼ぶだけでは不十分である)は、ボラピュクに対する皮肉な当てこすりだという(vol=mondo, puk=lingvo)。
 エスペラントの第一書の出版は1887年7月にポーランド語で発行され、その年の11月24日にはフランス語とドイツ語版が発行された。そのわずか3日後の27日にザメンホフはシュライヤーに手紙を第一書とともに送った。ザメンホフはドイツ語に堪能であったが、「シュライヤーにもエスペラントを学んでほしくて」わざわざエスペラントで書いた。シュライヤーが手紙や第一書を読んだかどうかは分からないが、非常な嫌悪感を抱いたのは確からしい。

   
写真はボラピュクの創始者マルティン・シュライヤー(ウィキペディアより)
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