【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「冬の小鳥」

2010-11-10 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

健気だなあ。
父親に捨てられた九歳のいたいけな少女が孤児院に入る韓国映画。
正確には韓国とフランスの合作。監督はフランス人のウニー・ルコント。
そのためか、悲惨な話なのに、どことなくセンスのいいところが感じられる。
この女の子が知性を感じさせるいい瞳しているのよねえ。
ほとんどこの女の子の瞳を見るだけの映画。ポスターから想像できる通りだ。
それ以外に何が必要?
何も。
何も足さない。何も引かない。
さざ波のようなできごとはあるけれど、いたってシンプルなつくりの映画。
この少女、最初は、いつか父親が迎えに来ると信じている。
周囲の子どもたちや施設の従業員には、まったく心を開かない。
唇をきゅっと結んだままの堅い表情がまた、たまらない。
幼いなりの決意にあふれていて、思わず抱きしめてやりたくなる。
それはやめなさい。あなたが抱きしめたら犯罪よ。
なんで?心外だなあ。俺は、父親のような愛を感じるって言ってるんだぜ。
彼女が唯一、楽しかった記憶といえば、父親の漕ぐ自転車に乗せられて街を走った記憶。
そのときのこぼれるばかりの笑顔。これがまた、施設に入ったあとの仏頂面とは正反対に幸せそのもので、なんとも心に沁みる。
彼女がこの笑顔を取り戻すのは、いつになるんだろうと思うと、私の胸も張り裂けそう。
お前の胸が張り裂けたら、ホラーになっちゃうけどな。人肉ホラー。
ニクいことに、父親はほとんど背中しか出てこない。
おっきくて、あったかそうな背中。父親が極悪非道に描かれればまだあきらめがつくものを、こんな思い出を抱えてちゃあ、この子が父親に未練が残るのもしょうがない。
孤児院の少女といえば、映画史上の最高傑作「シベールの日曜日」を思い出してしまうけれど、この子はまだシベールの年令にも達していない。
やがて旅立つ彼女に、俺たちは「幸せになれよ」と声をかけることしかできない。
そう、それでいいのよ。抱きしめたりしないでね。
って、まだ誤解されてる?




「へヴンズストーリー」

2010-11-08 | ★橋63系統(小滝橋車庫前~新橋駅)

久しぶりに、思索する映画を観た。
“思索する”映画?
映画を作りながら、真理を求めて自問自答を繰り返していくような映画。
そんな言い方すると退屈そうだけど、4時間38分、スクリーンに引き込まれっぱなしだったわ。
親を殺された少女が復讐の思いを別の形で遂げていくっていう話が映画の柱になっているんだけど、観終わったあとの印象はそういう下世話な地点からはるか遠くにある。
復讐譚から始まって生死とか神の領域にまで及んで行くんだもんね。
この懐の広さは4時間38分という上映時間がなければ不可能だったと思わせるだけの磁力がここにはある。
序盤、中盤、終盤に人形芝居が出てくるけど、この物語はある意味、神話なんだよ、っていうことをひそやかに宣言しているんでしょうね。
たとえば青山真治監督の「ユリイカ」を思い出すような世界観。
人間たちの織り成すドラマとともにその舞台となる風景がまた、圧倒的な存在感で訴えかけてくる。
雪にうずもれた山の中の炭鉱町。かつては栄華を誇ったであろう団地群がいまは見る影もない廃墟として屹立している。
体温を奪いとられたような風景。
そんなこと知らないとばかり、夏になると鮮やかな緑が何ごともなかったように生い茂る。
その一方で、海ぎわに建ち並ぶ現代的な団地。
波しぶきが灰色のうねりとなってぬっぺりと生ぬるく吹きつける。
そういった対比の中で映画が進行するから、文明の来し方行く末まで考えてしまう。
繁栄ってなに?進歩ってなに?そこで行われている人間の営みなんて何も変わっていないんじゃないか。
繰り返されるのは、いらだち、憎悪、血の惨劇。
その象徴としての復讐劇と風景。
ああいう場所が日本にはまだまだあるのかしら。
よく探して来たもんだ。
ふらふら海を漂う船で行き来する島なんて、それこそ伝説の設定みたいだしね。
うん。現代の話なのに、どこか抽象的な物語のような気分が漂うのは、そういう道具立てとか世界の切り取り方とかにあるのかもしれない。
アップでじっと見つめる人物の撮り方とか、彼らを追う手持ちカメラの揺れ方とか、そこで何が起きようとしているのか丸ごとすくい取ろうっていう意気込みに、観ているほうが息苦しくなるくらい。
世界っていったい何だろう、って考える映画だから、答えなんて始めからない。思索する、そのこと自体が目的の映画。
いまどき、愚直にも見えるその冒険心は、胸が痛くなるほど感動的。
でも、腰も痛くなってきたから途中で抜けちゃだめかな。
ダメだと思います!