【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「ブタがいた教室」:東小松川小学校前バス停付近の会話

2008-11-12 | ★錦25系統(葛西駅~錦糸町駅)

きょうは、ここでそばかうどんにしておく?
いや、ポークカレーとかポークジンジャーとかポークカツレツとかないのかな?
なに、それ。信じられない発言。「ブタがいた教室」を観たあとで、よくそんなこと、言えるわね。
というか、「ブタがいた教室」を観たからそう思ったんだけど。
だから、それが信じられないって言うのよ。「ブタがいた教室」は小学六年生が、自分たちの育てたブタを食べるか食べないかで延々議論する話よ。そういう映画を観たあとで、平気でブタが食べられるわけ?
だって、そもそも大きくなったら食べようってことで飼い始めたんだろ。だったら、文句言わず食えばいいじゃん。うまそーだったぜ、あのブタ。
でも、クラスの仲間としてあれだけ大事に育てれば、情も移るわよ。あなたみたいに血も涙もなく割り切れるわけ、ないじゃないの。
それがそもそもの間違いの始まりなんだよ。食べるために飼った、っていうことは家畜として育てなきゃいけないのに、子どもたちはかわいいペットとして育ててしまった。先生はその過ちを指摘するべきだったんだ。
家畜にPちゃんなんて名前をつけたのが、そもそもの間違いだってこと?
ああ、子どもたちは何度も「ボクたちの仲間なんだから」って繰り返すけど、それが誤解だって言うの。ブタはブタ。人間は人間なんだ。
そんなこと言ったって、家畜だろうが何だろうが、いつも一緒にいれば情がわくっていうのが人情でしょう。
だったら、どうして情がわくのか。情とは何か。それを議論すればいいだろう。
なるほど、あなたの意見はわかったわ。でも、この映画は、そういう意見も含めて、結論が大事なんじゃなくて、みんなで結論を出していくプロセスが大事なのよ。子どもたちが、あそこまで自分たちの頭で考え、悩み、発言していたことは評価してあげなくちゃ。
ああ、あれは驚いた。大きくなったブタをどうするかで子どもたちは延々と議論を繰り返すんだけど、誰の言葉もみんな、演技ではなく自分自身の意見としか思えない迫力があった。
そのひとつ、ひとつにそうだ、そうだ、とうなずいたり、そうじゃないんじゃないかなあ、と首をひねったりしている自分がいる。
もともと、実話だから強いのかなあ。
なんでも、議論のシーンにはシナリオがなく、子どもたちに自由に喋らせたらしいわよ。
なるほど。そうか。だから、言葉もしぐさもつくりものでない、本物の匂いがしたんだ。そうして編集でうまくつないでいったってわけか。納得。
彼らの言葉の中には、たかが小学生だなんてバカにできない奥深い発言もいっぱい飛び出してきて、正直、感動したわ。
ただ、これ、純粋に映画として傑作か、って言われると、にわかにはうなずき難いところもある。
どこ?
傑作には必ずある、艶っぽい映像がないんだ。
あーあ、またあなたのへ理屈が始まった。小学生たちが主人公なんだから、そんな艶っぽい映像なんてあるわけ、ないじゃない。
いや、登場人物がどうとかいう次元の話じゃなくて、映像として観客を魅了する映像だよ。ディベートの撮り方でも、ブタの撮り方でも、なんでもいいんだけど、前田哲監督が、強い意志を持って自分の個性を出したっていう場面がないんだ。
あなた、個性の強い映画監督の作品のほうが好きだもんね。
ああ。
だから、さっきからこの映画にグダグダ文句つけてるのね。
いやいや、この映画を絶賛できない本当の理由は他にある。
どこ?
だって、俺がこの教室にいたらどうなる?
あなたみたいなメタボな男が教室にいたら・・・ハハハ、文字通り「ブタがいた教室」だ。
笑うな!お前だって、人のこと、言えないだろ。
ブヒ。



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ふたりが乗ったのは、都バス<錦25系統>
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