【映画がはねたら、都バスに乗って】

映画が終わったら都バスにゆられ、2人で交わすたわいのないお喋り。それがささやかな贅沢ってもんです。(文責:ジョー)

「地下鉄<メトロ>に乗って」:東京駅丸の内南口バス停付近の会話

2006-10-22 | ★都05系統(晴海埠頭~東京駅)

東京駅から新中野に行くには丸の内線が便利だ。
映画の「地下鉄<メトロ>に乗って」では、永田町の駅を降りると新中野の町だったのよね。
丸の内線に永田町なんて駅、ないけどな。
え、そうなの?
丸の内線は赤坂見附、永田町は半蔵門線だ。
まあ、どっちでもいいけど。
よくはない。どうして半蔵門線の駅を降りると丸の内線の駅になってしまうのか、考え始めると夜も眠れない。
どうでもいいじゃない。地下鉄の駅を降りたら昭和39年の新中野だった、なんて最初だけで、あとは自由に過去と現在を行ったり来たりするんだから。
そこが問題なんだ。「メトロに乗って」というタイトルなんだから、駅を降りたら別の時代という約束くらいしなくちゃ。勝手に時代を飛び越えることができるんなら、「メトロに乗って」というタイトルにする意味がない。乗り物に乗って過去に行くんだという約束くらい最初から最後まで一貫してほしかった。
そんな約束事つくったら「バック・トゥ・ザ・フューチャー」になっちゃうわよ。
あれ、この映画って基本線は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」じゃないのかい?
そりゃそうだけど。
俺たちの会話だって「都バスに乗って」というからには、実際にある路線の実際にあるバス停の順番に会話していくっていう約束事だけは守ってるぜ。「メトロに乗って」だってそれくらいのリアリティがあってもいいだろう。
だけど、「メトロに乗って」の「メトロ」というのは、地下鉄に憧れるエピソードがあるように心の中のメトロなのよ。
たしかに地下鉄をめぐるエピソードにはぐっと来るものもあったけど、あくまでエピソードでしかない。映画の全体をつなぐ芯にはなっていない。この映画のテーマは、父と子の絆だろ?あんな父親にもこんな青春があったのかと子どもが知って父子の絆が回復していく、という話。だったら、そのテーマとメトロのエピソードがちゃんと連携しないとまずいだろ。
母子のエピソードもあったわよ。
それがまた、悩ましいところで、全体は父子の話なのに、クライマックスだけ母子の話になっちゃうから、座りが悪いことこのうえない。
じゃあ、母子のエピソードはなかったほうがよかった?ひとつの見所だったけど。
いや、あのエピソードを入れるならそのあとにあのエピソードをしのぐような父子のエピソードを入れないことには、映画としての一貫性が保たれないだろうと言ってるんだ。
つまり、あなたはこの映画が不満だったってこと?
中学の恩師の存在もよくわからない。思わせぶりなだけで、狂言回しになるわけでもなければあの家族にかかわってくるわけでもない。
ラストシーンにまた出てきたりしてね。
ラストシーンに出てくるべきなのはやはり父親だと思わないか?すべてのエピソードが終わったあと、主人公が地下鉄の新橋駅で黄色い電車を降りると、父親らしき人物を見かける。あわてて追っていくが、父親らしき人物は人込みの中へ消えてしまう。その方向を遠くを見るように見つめる主人公。暗転。そして、主題歌・・・なんてね。
新橋駅っていうのがミソね。
地下鉄っていうのは、光の届かない闇の中しか走らない妖しげな乗り物なんだ。だから、映像的にも物語的にももっと妖しくしようがあるだろうに、なんか中途半端なんだよな。ひょっとして、この監督は個人的にはあまり地下鉄に興味ないんじゃないか?
篠原哲雄でしょ。「はつ恋」とか「深呼吸の必要」とか、佳作をいっぱいつくってるわよ。
佳作はいっぱいつくってるけど、飛びぬけた傑作はつくってないんだよな。人はいいけど、妄執がない。
妄執?
こだわり。フェチ。昭和という時代へのこだわりもあまりない。
「ALWAYS 三丁目の夕日」とかと比べちゃうとたしかに、昭和に対する思い入れが少ない感じもしたわね。
そういうことだ。もっと思い入れを大切にして、この監督には捲土重来を期待したいね。
そのときの映画のタイトルは?
もちろん「都バスに乗って」だ。


ふたりが乗ったのは、都バス<都05系統>
晴海埠頭⇒ほっとプラザはるみ入口⇒ホテルマリナーズコート東京前⇒晴海三丁目⇒勝どき駅前⇒勝どき橋南詰⇒築地六丁目⇒築地三丁目⇒築地銀座四丁目⇒有楽町駅前⇒東京国際フォーラム前⇒東京駅丸の内南口

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