=118 ~木の因数分解~(家具工房つなぎブログ)

南房総でサクラの家具を作っています。ショールーム&カフェに遊びにおいでください。

「メメント・モリ」 藤原新也 in 駒ヶ根高原美術館

2009年10月04日 | 【メモ】木づいたこと、考えたこと
メメント・モリ = 死を想え


アジア旅行好きや写真好きなら、きっと知っているであろう「藤原新也」さんを私はその昔知らなかった。

また私は読書が苦手で、読んだ本はあまり多くないと思う。
ましてや買った本はもっと少ない。
そんななか、数年前にたまたまビジネス書以外の本を探していて、手にとった本が藤原新也さんの「黄泉の犬」だった。

その藤原さんの常設展示が隣の駒ヶ根高原美術館にあることを知ったのはちょっと前のことでした。


暗い展示室で手帳にメモッた文章が写真のものです。




死というものは
なしくずしにヒトに訪れるものではなく
死が訪れたその最期のときの
何時かの瞬間を
ヒトは決断し、
選び取るのです。
だから
生きているあいだに
あなたが死ぬときのための決断力を
やしなっておきなさい

(藤原新也 メメント・モリ より)




事故とか殺人はちょっと別にしても、死の瞬間というものをヒトは自分で選ぶ、選ばなければならない

ということであろうか。


スポーツ選手やアスリートを尊敬する理由はいくつもあるが、
私はその中のひとつに「引退を自分で決めなければならない」点がある。

今まで精一杯死力を尽くし努力して人生のすべてを賭けてきたスポーツから引退をしなければならない。
それはある意味、「死」と同じではないかと思う。
その死は自分で決めなければならない。
つまり20代もしくは30代にして、「死」を経験しているといえるのではないかと思うのです。
それはその後の人生を有意義にしたり、本当の死がやってくるまでにいろいろと準備ができたりするのかもしれない。


話は変わりますが、若い頃20歳くらいのころ、ぼんやりと「サラリーマンで定年を迎えたなくない」と思っていた。
それは、サラリーマンが嫌いなわけではなく、「定年」というものが自分で決めるのではなく年齢によって与えられれてしまうことに抵抗を感じていたからです。
「60歳(最近は65歳かな)まででいいです。明日で仕事終わりです。ご苦労さまでした」
私も会社勤めをした身ですので決して簡単には言えませんが、「定年」それはある意味、楽かもしれない。
でも、「終わりは自分で決めたい」
そんな思いが、私を職人に走らせた理由のひとつを形成しているのかもしれない。

職人が現役引退をしたら、そのままお陀仏なんてこともありうるかもしれないけど、アスリートのところで話したことに当てはめれば、少なくとも本当の死の前に一度は自分で「死を選ぶ」経験ができていることになる。

それは果たして、最期のときの決断力に貢献してくれるのだろうか。


◆藤原新也オフィシャルサイト
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