広島の人・エポカわ~るど編集日記

広島の人に関する情報誌HP「エポカわ~るど」の姉妹編として、情報を提供します。

電動車イスひとり旅/中田 輝義さん 

2011年03月09日 13時24分33秒 | 日記
 
 
 重症筋無力症の元フリーカメラマン中田輝義さんは、筋ジストロフィーと闘う札幌市の旧友を見舞うため、2007年、広島から約1800kmの距離を電動車イスで75日かけて旅した。携帯電話も持たず、サポートもつけず、厳しい旅だった。1日に何度もコン
ビニなどで電動車イスを充電し、行った先々で旅館を探して泊まった。雨に打たれ、寒さに震え、危険なトンネルも通った。
 中田さんは、旅の目的を「自分が生きていることを実感し、生きた証しを残す」ことだという。75日間の旅の一端を紹介する。
  
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<一言メモ>
 
 中田さんが重症筋無力症にかかったのは1995年、それから11年後、広島県熊野町から電動車イスを貸与される。そのとき、彼はハッと思いついた。
「この電動車イスで札幌へ行こう。北海道に住んでいたころの友人たちと再会して最後のお別れをしたい。
 これから僕は、だんだん体力も気力も衰えていくことだろう。このまま朽ち果てるなんて、僕にはとてもガマンできない。今ならやれる。やれる間にやっておこう」
 
 主治医は猛反対だったが、片道だけならと許可してくれた。電動車両メーカーは、電動車イスは遠距離を乗れる車ではないと強く止めたが、彼の意志は固かった。

 旅に出ると、多くの困難が待ち受けていた。電動車イスの充電は、コストが100円くらいしかかからないのに何度も断られた。宿も身障者という理由だけで何度も断られた。
 電動車には天井がないので雨はこたえた。雨と寒さのために風邪をひきかけたこともあった。風邪をひくと、当然ドクターストップがかかるので、たいへんな重圧がかかった。狭くて急な坂道、悪条件のトンネル。文字どおり死と隣り合わせの旅だった。

 これらの問題を乗り越えて、広島を出てから75日ぶりに目的地、札幌に着く。まさに奇跡ともいえるゴールインだった。筋ジストロフィーと闘う香西智行さんと感激の再会を果たす。
 香西さんはそれから4カ月後、肺炎になり眠るように亡くなった。
 
 中田さんは語る。
「電動車イスひとり旅は僕のためだけのものではなく、香西さんを励ますためのもの、僕らと同じ難病患者、身体障害者のためのものでもあった。だからこそ勇気をもって最後まで頑張れたのだと思う。
 今回の旅では実に多くの人たちに助けられた。それらのひとつが欠けても僕の旅は成立しなかっただろう。
 心より感謝申し上げます。ありがとうございました」




■エポカわ~るど メルマガ編集者の独り言  
電動車イスひとり旅と携帯電話
 
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「電動車イスひとり旅」を読みながら思った。どうして携帯電話を持っていかなかったのだろう。携帯電話があったらどんなに安全だったことか。その疑問は本を読み終わるまで消えなかったが、読了後、ああそうだったのかと納得した。

 芭蕉は旅に出る時はいつも死を覚悟していたという。もし充分なお金を持ち供もついていたなら、旅は平穏なものとなり、恐らくあれだけの作品は残せなかっただろう。
 中田さんも携帯電話を持たずサポートもつけなかったから、その苦労は並大抵のものではなく、死をかけた旅になった。それだけに目標を達成したときの感動は大きかった。

 中田さんは、困難な旅を通じて人間として成長したのではなかろうか。難所の倶利伽羅トンネルを通るとき、彼は次のように感じたという。
「トンネルの中の耳をつんざくばかりの轟音もやがて聞こえなくなった。生暖かい臭気や天井から落ちる水しぶきも気にならなくなった。
 意識が薄れたわけではない。むしろ五感のすべてを研ぎ澄ませ、緊張感をみなぎらせていた。何も考えず、頭の中は空っぽだった。
それは不思議な時間の流れだった。気がついたらトンネルを出ていた」

 人間の精神は自らの肉体を通じて成長するといわれる。つまり、肉体が病むと、それを肥やしにして精神が育つというのである。
 中田さんは難病にかかったうえ、自ら望んで困難な旅に出た。そうして帰還した。
 彼の旅にかけた思いが、今ようやく少しばかりわかったような気がしている。


 

広島に「広島友禅」の種を蒔きたい/中村ずいこさん・女流友禅作家  

2011年02月02日 16時05分09秒 | 日記
 
 広島市内の繁華街・八丁堀から歩いて3分ばかりのところに、着物や和の小物を扱っている「ずいこ」という店がある。オーナーは女流友禅作家中村穂湖(なかむらずいこ)さん。友禅の制作・販売をするほか、手描き友禅体験教室を開いている。その他、手広い店
内を利用して、陶芸・刺繍・版画などの作家展や三味線・シャンソンなどを聴く会を開催している。

 ずいこさんには壮大な夢がある。広島の地に、新たな文化「広島友禅」の種を蒔きたいという夢である。友禅には京友禅、加賀友禅、東京友禅がある。つまり全国で4番目の友禅を起こそうというのである。そのためには、長い歳月と多くの賛同者とたいへんな努力が必要である。ずいこさんに、心からのエールを送りたい。
  
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<一言メモ>
 
 ずいこさんは、京都生まれの京都育ち。舞台女優に憧れ、高校を卒業すると両親の反対を押し切って上京し某劇団養成所に入団した。劇団養成所では張り切って勉強したが、なかなか目が出ず3年で演劇を断念した。この挫折により、ずいこさんは一回り大きく成長する。
もともと好きだった着物の仕事をしようと、京都に帰り友禅師「国分直敏氏」の門に入った。一人前になるには10年かかると言われていたのを、なんと7年で卒業。それから、京都市下京区に工房をかまえ、独自制作の道に入った。

 2009年結婚。主人が広島の人だったので、京都の工房を閉鎖し、広島に「ずいこ」をオープンした。
 抱負を次のように語る。
「1つは、一人ひとりのお客さまに、ご希望の柄や色で世界に1つしかない着物を作ってさしあげること。もう1つは流通形態の改革です。普通、私たち友禅師は制作だけをして、販売は問屋や呉服店に任せてきました。これでは、どうしても売値が高くなるので「ずいこ」では、制作・販売を一貫して行うことにより売値を下げました。もう1つは店内の工房をオープンにし、手描きの工程がお客さまに見えるようにしました。少しでも、手描き友禅に親しみを持っていただければと思っています」

 さらに将来の夢について語る。
「友禅は1つの文化です。友禅は、京友禅、加賀友禅、東京友禅があり、主に三つの産地で作られています。広島の地に、特徴のある手書き友禅の種を蒔き、遠い将来には、広島友禅という文化を根付かせたいという夢のようなことを考えています。私ができることに
は限度があるので、賛同者の輪を広げていきたいと思っています」

 彼女は情熱を持ちながらも非常にクールな感覚を持っている。その持ち味を活かしながら目標に一歩一歩向かっていくことだろうと思った。

「ひろしま生きた自然博物館」代表として活躍する 田中博さん/83年間の人生を語る!

2010年12月24日 14時57分16秒 | 日記
 
「ひろしま生きた自然博物館」代表田中博さん(83歳)は、ライフワークとして子どもたちを対象とした自然観察学習などを行っている。自らの人生を第1の人生、第2の人生、第3の人生に分ける田中さんの人生は、非常に起伏に富み、聞いていていろいろ教えられることが多かった。
  
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<一言メモ>

 田中さんの話のうち、特に印象に残ったことを紹介すると、

◇第1の人生は60歳まで、第2の人生は60歳~75歳、第3の人生は76歳以降と考えています。現在、第3の人生が進行中です。この期はゆずる心が大切だなと思っています。

◇78歳になったとき、「犬や猫も生きているが、人間は単に生きているだけでなく仕事をする動物。そのためには現代的な感覚が大切」と思ったんです。そこで今まで収集してきた海藻の総合的・体系的な整理を通じて、新しい感覚を身に着けようと思い広島大学大
学院に入りました。

◇「ひろしま生きた自然博物館」の仕事は、これまでライフワークとして取り組んできた海藻収集の蓄積を実らせる場にしたいと思っています。現在、子どもたちの理科離れが進んでいますが、理科は日本の将来に非常に重要です。子どもたちが理科の好きな子に戻っ
てくるよう願いながら、自然観察学習活動を進めています。
 私たちメンバーには、海藻、野鳥、きのこなどいろいろなジャンルの専門家がいて、みんなでワイワイやっています。子どもたちが1人でも多く参加して欲しいですね。

◇私の人脈づくりは、「1に人間を大切にすること、2に自らの教養を高めること」を基本にしています。この2つは、生涯努力しなければいけないと自分にいつも言い聞かせています。

 田中さんは、これからも人のため世の中のために努力したいという。別れた後、その後姿を見ながらいつまでも健康でいらっしゃることを祈った。

忠臣蔵講師として活躍する/梶ヶ野弘美さん

2010年11月20日 20時30分02秒 | 日記



 
 梶ヶ野弘美さんは、平成16年、財団法人中央義士会の第1回忠臣蔵講師検定試験に合格してから、忠臣蔵講師として年間約20回、公民館や企業などで講演している。ちなみに梶ヶ野さんは現在2つの会社で役員をしているため、講演活動は土・日・祭日に行っているとのことだった。忠臣蔵講師検定を受けた経緯や忠臣蔵の今日的な意義などについて伺った。

  
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<一言メモ>

 忠臣蔵については、小説を何冊か読んだことがあるしテレビでも見たことがあるが、講演は聞いたことがない。ましてや忠臣蔵講師検定も忠臣蔵専門の講師があることも知らなかった。今回、縁があって忠臣蔵講師の梶ヶ野弘美さんのお話を伺ったが、同じ忠臣蔵でもこんな切り口があるのかと興味深かった。

Q 講演内容については、いろいろ工夫されていることでしよう。
梶ヶ野  現在、13通りの話ができます。講演内容を充実するため、関連するお寺などに行って写真をとったり事実関係を調べたりしています。初めて話す内容については、中央義士会の了解をとっています。

Q  忠臣蔵については、たくさんの小説も出ていますね。
梶ヶ野  中央義士会は、政治・宗教・思想に左右されずに史実を追求する立場をとっています。ご承知のように、元禄赤穂事件が起きたのは、絢爛たる経済・文化・政治が行われていた元禄時代です。
この時代的な背景を正確に把握しない限り、忠臣蔵を正確に語ることはできないと思います。

Q  忠臣蔵の今日的意義というと、とんなことなんでしうか。

梶ヶ野  非常に困難な環境にあり多くの脱落者を出しながら、主義主張の異なる47人の集団をまとめ、本懐を遂げた大石内蔵助の人間性・能力については、今も価値を失っていません。その戦略・戦術は企業経営だけでなく、現在の困難な時代を生きていくうえの指針にもなると思います。

仏師として活躍する中西平三さん

2010年10月03日 21時39分42秒 | 日記
  
 中西平三さん(68歳)は、仏師(日本における、仏像などの制作を担当する者の名称)である。中西家は仏師一族で、父親の幸一さんは仏師として名を残した人だった。その生涯の一端が小学校の教科書「新しい生活」に掲載されている。父親の後を最初に継いだのは兄のたかしさんで、その後平三さんがこれに加わった。
 平三さんが仏師の道に入ったのは、広島市長性院の仁王像を制作を手がけてからで、当時43歳だった。
 平三さんに仏師の仕事について伺った。
  
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<コメント>
 仏師という職業を初めて知った。仏像についても縁遠かったが、話を聞いたり写真などを見せてもらったりしているうちに興味が湧いてきた。
 中西さん兄弟は一体となって共作しており、その制作数は50~60ともいわれる。近年中国の著しい進出により、2人への受注数は激減した。こんな厳しい中で、中西さん兄弟が力を入れているのは、過疎地のお寺の仏像修復で、材料費だけをもらいボランティアで彫刻している。
 こんなことで後継者は今のところいないが、せつかく父親から引き継いだ伝統工芸なので、その灯を消さないよう日夜努力しているとのことだった。