広島の人・エポカわ~るど編集日記

広島の人に関する情報誌HP「エポカわ~るど」の姉妹編として、情報を提供します。

18年間の悪役俳優の経験を活かし「ひろしまイベント参加隊」する柿辰丸さん

2011年10月17日 20時24分39秒 | 日記


 柿辰丸さんは東京で18年間悪役俳優として、テレビや映画などに数々出演してきたが、2011年2月23日、東京での悪役俳優業と離れ、故郷の広島で新たなるスタートを切った。現在、ひろしまイベント参加隊を設立し、これを軸にカープ侍や笑いヨガ、レポーター、講演など多面的な活動を展開している。
 柿さんの行動の基本は「脇役に徹すること」。これは18年間の悪役俳優の経験から身に着けたものである。
 悪役俳優の体験や今取り組んでいることなどについて伺った。
 
  
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<一言メモ>

「私は時代劇には出ていません。現代劇専門で、暴力団とか地上げ屋などに出演しました。大半が捕まったり殺されたりで、18年間に2000回くらい死にました(笑)。本当は刑事になるほうが好きです。たまに刑事ドラマに出て、脇役ですが刑事になりました。手錠をぶらさげて歩くと、たいへん気分がよかったですね(笑)」

「脇役は主役が格好良くみえるように演技するのが使命ですから、このことについては常にキモに銘じていました」

「脇役には脇役の大事な役割があります」

 このように笑いながら話す柿さんには、18年間にわたる悪役俳優を通じて身につけた、脇役哲学に対するゆるぎない自信があった。

 柿さんには、もうひとつの顔がある。彼は約20年間にわたって(株)マツダレンタカーに勤務、その後半には法人戦略部長として北海道から九州まで走り回った。
 悪役俳優と法人戦略部長とはなにかなじめない感じだが、柿さんはこれらを見事にこなした。

 今年の2月広島に帰ってからは、東京での経験を基に数多くの活動を展開し地域の貢献に努力している。今は走り出したばかりだが、次第に着実に成果を挙げていくことだろう。
  

パワードパラグライダーで空を飛び写真を撮影する西村博夫さん

2011年09月28日 14時24分07秒 | 日記


 
 西村博夫さん(52歳)が初めてパラグライダーで空を飛んだのは、39歳のときだった。それからすぐにパワードパラグライダースクールに入り、卒業すると「オノダスカイスクール」を開設した。
そのときの会員数は150人で、空前の大成功と評判を呼んだ。4年後にはそのスクールを閉鎖して、パワードパラグライダーで災害地等を撮影する(有)空撮ジャパンを開設、現在に至っている。
 彼のモットーは「後ろを振り返らない。前進あるのみ」。新しいテーマが見つかると、力いっぱいぶつかっていく。そのパワーは他に追随を許さない。

注:パラグライダーは簡単にいうとパラシュートを発展させたもので、薄い布と細い紐でできている。動力を持たないため上昇気流を捕まえなければ高く上がれないが、上昇気流にのると1000m以上上昇したり、3時間以上飛んだり、10km以上移動したりする。
 パワードパラグライダーは、パラグライダーにエンジンをつけたもので、エンジンでプロペラを回転させ自由自在に空中を飛行する。上空でエンジンを止めるとパラグライダーと同じように滑走飛行できる。

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<一言メモ>
 
 西村さんがパワードパラグライダーの道に入ったのは、ある挫折がきっかけだった。
 35歳になったとき妻と離婚、最愛の2人の娘(小学生)は妻の方で養育することになった。そのときまったく予想していなかったことが起きた。事情あって子どもたちと会えなくなったのである。これは子煩悩な彼の心をずたずたに裂いた。

 彼は会社を辞め故郷の山口に帰ったが、傷心のためひきこもり状態になった。4年ばかり過ぎたある日、気分転換に沖縄に出かけた。
そこで彼の運命を左右する人と出会った。その人の名前は仲里裕和さん、通称「ひげのおじさん」と呼ばれていた。
 仲里さんはパワードパラグライダー歴13年の日本チャンピオンで、人間性も豊かな人だった。西村さんはさっそく、パワードパラグライダー入門を申し出た。
※残念なことに仲里裕和さんはこのときから10年後(55歳)、白血病で亡くなった。

 その後の西村さんは、持ち前のバイタリティでパワードパラグライダーの道を突き進み、成果を着々と出していく。
 ある日、成長した娘さんが彼の許を訪れた。彼はどんなに嬉しかったことか。10年ぶりの再会だった。今では娘さんは2人とも結婚し幸せに暮らしているという。

観光ボランティアガイドに生きる山元利成さん/地域の魅力を発見し地域の発展につくしたい

2011年08月17日 15時48分37秒 | 日記
 
 山元利成さんは10年前から「呉観光ボランティアの会」の会長を務め、地域社会の発展に日夜努力を続けている。
 山元さんは呉観光ボランティアだけでなく、広島県青少年健全育成会議、広島県青少年育成アドバイザー、クレアドベンチャースクールなど数多くの団体の役員をしており、そのバイタリティと職務遂行能力は周囲の人たちから高く評価されている。
 本日は、「呉観光ボランティアの会」での活動内容を伺った。
  
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<一言メモ>
 
 山元さんはほんとうに忙しい人だ。取材するのに、彼の時間がとれなくて苦労した。呉観光ボランティアの会のほか、10以上もの団体の役職をしているのだから忙しいのも仕方ないと思ってあきらめた。
 それにしてもこれらの仕事はすべてボランティア、つまり無報酬なのである。交通費など諸雑費はすべて自己負担とのこと。よくやると圧倒された。

 山元さんの観光案内に帯同してみた。「てつのくじら館」を説明する山元さんはまさにプロだった。そのほかに、江田島航路フェリーや観光バスに乗り、ボランティアの方の案内を聞いたが、たいへん熱心でわかりやすく楽しかった。

 山本さんから聞いた次の話は心に残った。

『観光ボランティアをしていて、忘れられないことが2回ありました。
 一度目は、高齢のご夫妻を案内したときのことです。90歳を過ぎていると思われるご主人が思いつめた表情で言われました。
「呉にいたとき、敵機の空襲を受けました。私は機関銃で必死に応戦しました。それは最後の戦いになったんです。その場所は軍港が見える山の斜面でした。私は死ぬまでに、その場所に一度立ってみたいと思い続け、ここにきました。どこかわかりませんでしょうか」
 私はある場所を思い出しました。おそらくそこだろうと思い案内しました。そこに着くとご主人は周囲を見回していましたが、
「ここだ。ここだ」
 と言われました。これを聞いて奥さんは
「来て良かったですね」
 と涙ぐまれていました。

 二度目は、60代ぐらいの男性の方でした。
「1歳のとき、呉市の面会所で父と別れました。それから父は戦死しました。私はものごころがついてから、父と別れた場所に行きたいと、いつも思っていました。呉にはそんな面会所がありますか?」
「戦時中海軍の集会所になっていた施設があります。現在は自衛隊が使っています。おそらくそこでしょう」と言って案内しました。
 その方はその施設に入ると、食い入るように周囲を見回していましたが、
「これで安心しました」
 と言って帰って行かれました』
  

自転車なんだよ人生は/山口忠行さん/トラックマスターズ世界自転車選手権優勝者

2011年07月06日 13時45分00秒 | 日記
 
 山口忠行(41歳)さんは、2010年10月、ポルトガルで開催されたトラックマスターズ自転車世界選手権の40~44歳の部・スクラッチ(10km)で優勝し、世界チャンピオンになった。競技の模様や日頃の練習状況などを紹介する。
  
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<一言メモ>
 山口さんは世界一の男である。
 野球やゴルフのように人気のある競技と違い自転車競技はどちらかといえば地味だが、山口さんは「トラックマスターズ世界自転車選手権」の栄えある優勝者なのである。
 インタビューする前は、山口さんのこの価値がよくわからず、なにかもやもやしていたが、話を聞くにつれ彼の偉業の重みがわかってきた。

 ポルトガルで行なわれたトラックマスターズの競技(40~44歳の部)には、世界から25名のそうそうたる選手が参加し選手権を争った。体力・技術では、本命のオーストラリアの選手に敵わないと思った山口さんは、周到な作戦をたて見事に優勝を勝ち取った。

 優勝にいたるまでの彼の努力の積み重ねは、さぞかし並々ならぬものがあったことだろう。
 優勝したら賞金がでるのかと聞くと、彼は目をまん丸くして答えた。
「そんなのは全然ありません。ポルトガルまでの旅費も含めてなにもかも自腹です。優勝すると、青地に虹色ラインの入ったアルカンシェルというジャージをもらえます。チャンピオンは1年間だけこのジャージを着用して走ることができます。これを着ていると、世界チャンピオンだということが周囲の人にわかるんですね。これがなによりも嬉しく、誇りなんです」

 現在も練習しているのかと尋ねると、
「会社から自宅まで、毎日往復3時間自転車に乗っています。そのほか週末に6~7時間走っています。身体を鍛えるため市内のトレーニングジムにも通っています」

 将来の夢を聞くと、彼は笑いながら答えた。
「世界選手権は、5歳きざみでクラス分けされており、最高齢クラスは75歳以上のクラスです。10年後か20年後、あるいは30年後になるかもしれませんが、もう1度、アルカンシェルを手にすることができたら嬉しいなあと思っています」

愛と平和」をテーマに巨大木版画を制作する君島龍輝さん

2011年04月06日 22時36分18秒 | 日記

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 君島龍輝さんは、愛と平和をテーマにした畳180枚分にもなる巨大木版画プロジェクトを現在制作中である。こうした超多忙のさなか、広島市中区八丁堀にあるビルで「愉快で楽しい木版画教室」を主宰している。君島さん独特のひょうひょうとしたキャラクターは、教室の雰囲気を明るくし楽しくしている。君島さんに、これまでの経歴や巨大プロジェクトまでの道程などについて伺った。
  
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<一言メモ>
 君島さんは学校を出てからプロのギタリストを目指していたが、25歳のとき、スペインのフラメンココンサートを聴き強烈なショックを受けた。この域に達するのは、一生かかってもムリだと思ったのである。
 君島さんの決断は早かった。ただちにギターを断念、故郷の那須温泉に帰つた。

 実家は蕎麦屋だったので、ポスターやカレンダーの裏面に蕎麦に関する絵と文字を描いて店に掲示した。ある日、彼が外出先から店に帰ると、すべての絵がなくなっていた。どうしたのかと店員に聞くと、お客さんが買っていった答えた。
 その後、木版画のプロとして北海道から九州まで積極的に活動を展開、さらにニューヨークへ進出した。

 日本に帰ると広島に移住、巨大プロジェクトの制作に着手した。
テーマは『愛と平和』。君島さんは淡々と次のように語る。
「自分が得意としている版画で、平和の尊さを世界に向けて発信したい。発信力を高めるためには大きい作品のほうがよいと思い、巨大プロジェクトに挑戦することにした」

 制作開始は2010年6月2日、完成予定はなんと2012年12月25日というのだから、さぞかしストレスがかかるだろうと思ったが、彼にはそんな気配はまるでなかった。
 版木の裏に、1万人もの人たちから「愛と平和」のメッセージを書き込んでもらうそうだが、すでに3000人のメッセージを書いてもらっているとのことだった。
 君島さんいわく、
「平和は、家族仲良く、近所の人たちと仲良く、から始まるものと思っています」