広島の人・エポカわ~るど編集日記

広島の人に関する情報誌HP「エポカわ~るど」の姉妹編として、情報を提供します。

歌謡漫才ザ・バ~ニョ/風呂哲州&エミリン

2012年03月22日 12時27分09秒 | 日記
唄と笑いで健康応援コンサート/歌謡漫才ザ・バ~ニョ/風呂哲州&エミリン

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 歌謡漫才ザ・バ~ニョ(風呂哲州&エミリン)は、2007年1月、コンビを結成しました。主な仕事は、昭和歌謡や童謡唱歌を中心にした、音楽と笑いのステージです。
 それから5年間着実に成長し、今では公民館や学校、企業の催しなど中四国九州各地のイベントに出演しています。

詳細⇒http://www.epocaclub.com/


<一言メモ>
 
 歌謡漫才を始めたきっかけを尋ねると、哲州さんとエミリンさんが次のように語った。

[エミリン]
 テレビでお笑い番組を見ていたとき、私のほうが面白い、と言ったら、やれるものならやってみろと言われました。それがきっかけです。
[哲州]
 初めは、私のライブにエミリンが入ってくる感じでしたが、だんだん、彼女が図に乗ってきました。
[エミリン}
 私のエンジンが止まらなくなってきたんです(笑)。フラワーフェスティバルや公民館で公演したり、NHKテレビに出演したり。おかげさまで、あちこちから呼んでいただいています。

 エミリンさんは、3歳のころから、船小屋温泉(福岡県)で、森昌子の「先生」や、「雨の慕情」「青い山脈」などを唄っていたとのこと。もともと才能があったようだ。

 最近は、亀山小学校の5年生と6年生を対象に、漫才とコントの指導をしていると、哲州さんが説明する。
「初め児童たちが自分たちの手でネタを作るんです。ぼくとエミリンはある程度でき上がったネタを見せてもらって、アドバイスをします。クラス内での予選で2組ずつ残り、体育館での本戦で1位から3位まで決めます。2人か3人のグループ出演です。みんなどんどん上手になっていきますね」

 風呂さん一家は、哲州さん、エミリンさん、娘のこころちゃん、犬のマルコの4人。とても賑やかなファミリーである。
 結婚したのは2005年。それから哲州さんは変わった。ものすごく明るくなり、それが声にも出ている。持つべきは妻であり、マイホームということか。

 エミリンさんに、哲州さんのどこに惹かれたのかと聞いたら、笑いながら「顔ですね」と答えた。まことにあっさりしたものである。
 今度は哲州さんに、エミリンさんのどこに惹かれたかと聞くと、「明るい性格ですね。それに頑張り屋で働き者。お互いに励ましあって、生きていけると思いました」
 と、哲州さんらしい模範解答。

 こころちゃんの名前の由来を聞くと、エミリンさんが答えた。
「この子がお腹にいるとき、ころころするのでコロちゃん。実際に生まれたとき、『こころ』と名づけました」
 
 こころちゃんにどんな歌が好きかと聞くと、
「カエルの歌が好き。歌はお父さんが上手。漫才はお母さんが上手」
 と答えた。これにば全員大笑いだった。

手回しオルゴールの普及に全力を尽くす達磨情報企画室/右田悦雄・敬之さん

2012年03月01日 19時58分08秒 | 日記

 右田悦雄さん・敬之さん親子は、中国地域の幼稚園、小学校、介護施設等を回り、手回しオルゴールの演奏会を開いています。どこでも大人気で、先般はテレビにも出演しました。 
 右田さんは手回しオルゴールのほかに達磨の会を主宰し、いろいろな事業を展開しています。今回は、手回しオルゴールにしぼってお話しをお伺いしました。
詳細⇒http://www.epocaclub.com/

<一言メモ> 
 東広島市に在住する右田さん一家は、悦雄さん、奥さん、奥さんのお母さん、長男の敬之くんの4人で、ときおり一緒にカラオケに出かける楽しいファミリーである。  
 悦雄さんは、(株)理研産業から(株)雲海酒造を経て、昨年の4月東広島市に帰ってきた。(株)雲海酒造退職の理由は、敬之くんの長年の不登校問題(昨年の3月高校を卒業)だった。  

 悦雄さんには、手回しオルゴールの普及活動という長年の夢があった。この夢の実現と敬之くんのリハビリをかねて、昨年の4月から親子同伴で中国地域の各地を回り、手回しオルゴールの普及活動を始めた。  
 悦雄さんがほれ込んだ手回しオルゴールについて、彼は次のように語る。
「私が扱っている手回しオルゴールは、宮崎県の『飫肥(おび)杉』という百年ものの杉で作られたものです。杉は4年間をかけて乾燥します。釘は一切使っていません。共鳴はバイオリンの技術を使っており、手回しオルゴールとしては、最高の響き、音色が出せます。飫肥杉の柔らかい、哀愁のこもった響きが特長です」  

 中国各地を回り始めて、着実な成果が出始めた。その状況について、彼は次のように説明する。

○幼稚園、小学校、介護施設など、いろいろなところへ行き演奏会を開催しました。子どもさんにもお年寄りにも大人気です。童謡を演奏すると、いつも合唱が始まり、アンコールも出ます。先般はテレビ、新聞でも活動の様子が紹介されました。
○もう一つは、手回しオルゴール教室です。参加者がミュージックカードに好きな絵を自由に書き、その絵にそって穴を開け曲を作ります。その結果、世界に1つしかない自分だけのオリジナルの曲ができます。 
 皆さんは絵から音楽が生まれるので大感激。子どもさんも大はしゃぎです。 
 現在「オルゴールを聴くから弾いて楽しむへ」をキャッチフレーズに、オルゴール教室を展開しています。
○三つ目は、各種の特長のある手回しオルゴールの販売です。
○四つ目は、オリジナルオルゴール曲の企画・販売です。 
 先般、宮島の山の稜線をメロディーにしたオリジナル・オルゴール曲「みやじま杜のささやき」が、オルゴール作曲家・山田千秋さんの協力で完成しました。この曲は、「新・みやじま紀行2012」のテーマ曲として採用されています。  

 敬之くんはお父さんと一緒に回っているうちに、手回しオルゴールの演奏技術が格段に進歩し、人間的にも大きく成長した。彼は次のように語る。
「父についてあちこちを回っていると、いろいろな方と出会い、たいへん生きた勉強になりました。おかげで、だいぶん自信がつき、今年の4月から東京のアナウンス声優学校に入ることにしました。生まれて初めての自分だけの決断でした」  

 インターネットを開くと、手回しオルゴールの販売サイトはかなりの数ある。ところが、現実には手回しオルゴールの認知度はあまり高くないのが実態のようである。 
 このようなバックグラウンドと右田さんの情熱とがあいまって、上記のような成果が生まれたのだろう。  
 今年の春から2人は別れ別れになり、それぞれ異なる道を歩き始める。お2人のさらなる発展を心から祈りたい。

出会いの場・交流の場・お好みハウス「あかとんぼ」/福田誠三・英美さん

2012年02月09日 20時34分27秒 | 日記


 福田誠三さん夫妻が経営するお好みハウス「あかとんぼ」は、「広島風お好み焼き+つけ麺の店」として定評があります。加えて、最近いろいろな楽しいイベントを常時開催しており、出会いの場・交流の場「あかとんぼ」としても好評を博しています。その経緯や状況を福田夫妻にお尋ねしました。

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<一言メモ>

「あかとんぼ」にはロマンがあります。
 福田誠三さんは、お父さんが経営していた「とんぼ食堂」で生まれました。当時は病院でなく産婆さんの手で生まれるのが普通だったのです。
 産婆さんは、これで終わりと思っていたら、もう一人小さな赤ん坊が出てきたのでビックリ。これが誠三さんでした。

 誠三さんと一嘉さんは一卵性双生児で、容姿も行動も非常に似通っていました。2人は大学を卒業すると、モーツァルトで修業した後、お父さんが引退した「とんぼ食堂」を引き継ぎました。
 店名は「あかとんぼ」、サービス内容は関西風お好み焼きと広島風お好み焼きに改めました。関西風お好み焼きは売れ行きがよくなかったので、しばらくして撤退しましたが、商売はたいへん順風でした。

 誠三さんが27歳のとき、妻になる英美さんに出会いました。相性が良かったのでしょう。1年で結婚しました。
 誠三さんは語ります。
「いっしょにやっていけると確信したんです。彼女はピアノの先生をしており、ぼく以上の収入があるんです。二馬力なので、ずいぶん貯金ができました。もちろん、それが目的で結婚したわけではありません(笑)。ピアノの先生は3年後辞めました」
 子どもが次々に生まれ、一男三女に恵まれます。みんなバスケットが好きな「バスケット一家」です。
 福田さん一家には、「みんな、やさしくて明るくて」という家訓があります。文字どおり楽しい一家です。

 良い状況はいつまでも続かないものです。誠三さんが35歳のとき、環境が一転しました。バブルがはじけ、おまけに、広島大学が東広島市へ移転しました。そのため、毎日、閑古鳥、まさに「夢のあと」になりました。
 二家族分の収入を上げることが絶望的になったので、兄の一嘉さんは「あかとんぼ」から撤退し、県北の千代田町で美味しい水を使ってパンづくりを始めました。2人がついに離れ離れになったのです。

 誠三さんはピンチから脱するため、お好み焼きの宅配便やつけ麺を始めました。
 「あかとんぼ」の最大の変化は、「出会いの場・交流の場」に生まれ変わったことです。
 お客さんの岡寺憲一さんから、
「お客さんを待つのではなく、呼んだらどうだ」
 と言われ、いろいろなイベントを開催し始めたのです。
 誠三さんの弁。
「お客さんがたいへん喜んでくださいました。大成功です。こんな方法があったのかと思いました」
 奥さんの英美さんの弁
「その頃から、主人は変わりました。お好み焼きを焼くとき、気分が向かないと、それが顔に出ていましたが、今ではいつも楽しそうにお好み焼きを焼くようになりました」

 誠三さんは、これからの抱負を次のように語ります。
「あかとんぼを『人の交流の場』にすることは、これからもずっと続けていきます。『自分も楽しく、他人も楽しく』をモットーに経営していきたいと思っています」
 
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プリザーブドフラワー・レッスン&ショップ
               /スタイル オブ エポカ  
     http://www.epocaclub.com/preserv/index.htm
                            
グループホームみどりの家
  http://www.epocaclub.com/midori/index.htm

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(株)ソアラサービスを設立した代表取締役社長 牛来千鶴(ごらいちづる)さん

2012年01月16日 19時54分22秒 | 日記



広島をもっと元気に!「人」と「モノ」を産み出す場と仕組みづくり
(株)ソアラサービスを設立した代表取締役社長 牛来千鶴さん

(株)ソアラサービス代表取締役社長牛来千鶴さんは、2000年に広島SOHO'クラブを立ち上げてから、広島に「クリエーターや起業家のためのビジネス拠点」をつくる夢を持ち、その実現に向けて全力投球をしてきた。

 その実現のためには、かなりの規模をもったビルと改装資金が必要なので、難しいのではないかという声もあったが、彼女のバイタリティと才能でその難関を乗り越え、2009年6月、広島市の中心地に「SO@Rビジネスポート」と呼ばれるビジネス拠点を開設した。

 彼女の夢は大きく、将来への夢を次のように語った。
「クリエイターやSOHO、起業家らと力を合わせ、広島に “あったらいいな” をカタチにし、地域をもっと元気にしたいと思っています」

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<一言メモ>

 2000年に広島SOHO'クラブを設立してから1年もたたないうちに、広島SOHO'クラブ1周年交流会で、牛来さんは宣言した。
「10年先には8階建てのSOHOオフィスを開設します。300人規模で、最上階にはバーもつくります」
 これにはビックリ仰天。そのときは、とてもできそうにないと思ったが、それがほぼ実現したのだからすごい。

 牛来さんは、次のように宣言の背景を語る。
「クリエイターや起業家のためのビジネス拠点としては、それまでのSOHOオフィスはいろいろな面で限界がありました。大きな飛躍を求めるには、ロケーションを変えざるをえなかったんです」

 いざ工事に入って一番大変だったのは資金だった。牛来さんは、その間の事情を次のように話す。
「工事の方はどんどん進みましたが、問題の資金は突破口が開けず、どんなにお金をかき集めても300万円足りませんでした。焦りましたね。最後の頼みにとM社の専務にお願いしたところ、なんと出資してくださるとのことでした。『これで工事代が払える。永年の夢が実現する』と、万感の想いがこみ上げてきて、つい涙ぐみ、ただただ頭を下げ続けていました」

 こうして「SO@Rビジネスポート」が完成、ここを拠点に牛来さんは力強く事業展開を進めていく。

 彼女には、かねてから120歳まで生きるという夢があった。
「私はいつか宇宙から地球を見たいと思っています。70年も先には誰もが行ける環境になっているのではないでしょうか。そのときを楽しみにしています」
 不可能なことを可能にしてきた牛来さんのことだから、これも実現するかも知れない。
 ロマンティシスト牛来千鶴さんに乾杯!!

音楽のパワーで広島から元気を発信しよう!広島ミュージックジャンボリー/前田満樹(まき)さん

2011年11月15日 07時58分11秒 | 日記

 前田満樹さんは、昨年広島ミュージックジャンボリーを立ち上げ、昨年と今年音楽ライブを開催した。これは広島県内の10地域(昨年は9地域)にある会場をリレー式に開催する音楽ライブで、その実施期間はなんと2カ月、実にスケールの大きい企画だった。 
 その間、参加者は「音楽のパワーで広島から元気を発信しよう!」を合言葉に、みんな楽しみながら懸命な活動を続けた。驚いたことに、すべて手弁当ということだった。 実行委員長として全会場を束ねる前田さんをインタビューした。

詳細⇒http://www.epocaclub.com/


<一言メモ>  広島ミュージックジャンボリー(HMJ)は 、この2年間に2回の音楽ライブを行い次のような実績を残した。
・2010年 参加者108組220名/9地域9会場
・2011年 参加者120組300名/10地域12会場 

 観客数を独断で推計をすると、1会場あたり300人とみて2年間に21会場で実施しているので、総計6300人ということになる。しかも、内容も演奏者・スタッフ・観客が一体となった感動的なライブだった。  
 これだけのイベントを実施したのは、設立されてわずか2年しかならないボランティア集団というのだからすごい。

 この集団をまとめているのは前田満樹さん。名前だけをみると男の感じがするが、華奢で小柄な美人である。  
 彼女は帽子のデザイナーが本業で音楽とは縁がなかったが、51歳のときご主人に誘われてフォークソングを歌うようになった。 
 いろいろな場所で歌っているうちに、彼女は次のように感じるようになった。
「歌う側と聞く側が一緒になれば、素晴らしい大きな力が生まれるのではないかと感じました。今、世の中が厳しくなり、心を病んでいる人も増えています。一人ひとりの力は小さいけれど、楽しいことをみんなで力を合わせてやれば、少しは世の中が明るくなるかもしれないと思いました」  

 彼女は2年前、観客数2000人のフォークソングのイベントに出て、その迫力に驚いた。しかし、これまで数年間、リレー式音楽会の着想を温めていたので、「これなら自分にもできる」と思った。 

 さっそく音楽仲間に声をかけたが、反応は今一。そこで、彼女は個人で立ち上げることにし、名称は「広島ミュージックジャンボリー」、ノージャンルということにした。 

 賛同する仲間は最初は5人ばかりだったが、やがて10人になり、今では30人ぐらいになった。この人たちは自分の持ち味を最大限に発揮し、広島ミュージックジャンボリーは確実に前進し始めた。  

 彼女は将来の抱負について、次のように語る。
「現在集まった実行委員は、自身のHMJという認識を持つようになり、それぞれの歩みで参加しています。これがHMJの運営の大きな力となっています。そのみんなの力を結集し、少しずつHMJの輪を広げ、今後は地域の発展にも役立つようなイベントにしていきたいと思っています」