平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

竜馬がゆく~恋するさな子が桔梗の花に託したもの

2012年08月02日 | 小説
 『竜馬がゆく』で次のような描写がある。
 脱藩した竜馬が、江戸の千葉道場に久しぶりにやって来た時の描写だ。

 庭には古井戸がある。
 そのむこうに道場の板塀があり、腰板のあたりの破れ目まで昔のままだった。
 ふと、おうちの樹のむこう、すこし離れた塀ぎわの一角が河原石で数珠輪に囲まれ、そこに桔梗がいっぱい植わっているのをみた。
(むかしは、あんな草はなかったな)
 わざわざ石でかこんでいるところからみて自然にはえたものではなく、たれかが植えて面倒をみているのだろう。
 花がふたつ、ついている。
 つりがねに似た、淡いあおみどりの花が、可憐に風に揺れていた。
 桔梗は、竜馬の紋所である。だから、というわけではないが、この花が好きだった。
 が、竜馬は気づかない。
 この花は、安政五年、竜馬が、藩の留学期間がきれて国ことへ帰ったあと、さな子がこっそり植えたものだった。
 兄の重太郎が見つけて、
 どうも雑草がはえてこまる。
 とひきぬこうとしたところ、さなこはあわてて
「わたくしが植えたのです。お父様のお咳の薬になると思って」
 と言った。

                『司馬遼太郎全集 竜馬がゆく一 490ページ 流転』より抜粋

 
 以上は、庭に植えられた<桔梗>を使って、竜馬に思いを寄せるさな子の気持ちを描いた場面である。
 さなこは<桔梗>に託して、竜馬への気持ちを表現していた。
 一方、竜馬も、兄の重太郎もそのことに気づかない。
 さりげないが、実にせつない。
 <桔梗>という小道具が的確に使われている。

 『竜馬がゆく』は司馬遼太郎作品では前期のものに属すと思うが、この頃の司馬遼太郎さんは、こうした文学的表現を使っていたんですね。
 人間の感情もさらりと、しかも鮮やかに表現していた。
 ところが後期になると、こうした文学的表現や感情表現はなくなり、歴史を司馬史観みたいな形で描くようになった。
 どちらが文学としてすぐれているかといえば、僕は『桔梗』の表現の方に軍配をあげるのだが、どうだろう?


コメント
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