25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

またコツコツと

2019年08月19日 | 日記

 過去のブログの校正を再度やり始めた。1999年から始めてから今2009年の7月である。ずっと読んでいると過去のことが時に思い起され、忘れていて驚いたり、馬鹿なことをしたなあ、恥ずかしいばかりだ、と過ぎてしまったことが修正はされず、その体験や経験は現在の自分に沈殿しているはずだと思う。思想としてはさほど変わっていないと思うが、2009年から現在までは10年も経っているので、何かが変わっているのかもしれない。

 昨日驚いたことを細君から聞いた。ある男性は若い頃、子育ての頃はリベラル的な発言をよく家でしていたので、退職してからもリベラルだと思っていた。ぼくの記憶ではその男性がなくなってからだと思うのだが、息子はその男性、つまり父親が「ネトウヨ」だったことを知り、愕然とした。匿名のSNSの時代、その男性はどういう経緯でネトウヨになったのか。それを知りたい。暇すぎて、頭の中で煽りたくなってくるのか。「反韓」を煽る。「反中」を煽る。

 ぼくはネトウヨは若い一部の者だと思っていたら、なんと老人に多いという。しかもお金ある自営業者とか、医者とかにもいるという。

 このような社会現象はやがて小説となって現れることだろう。ぼくは今のところ「反韓」でもなければ「反中」でもない。「反米」でもない。

 昨晩から宮部みゆきの新刊「さよならの儀式」を読み始めた。早速知らない用語が出てきた。「マザー法」。マザー法? 何それ。宮部みゆきの造語? 宣伝文句には宮部みゆきの新境地とあったので買ったのだった。しばらく楽しめるだろうか。昔、「火車」の素晴らしさにびっくりして、結構彼女の作品を読んだことがある。久しぶりだ。

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比喩・2009年04月18日(土)

 腸管を裏返しにするとそれは植物の茎のようなもので、口と肛門はその腸管の入りと出の場所である。顔はそこから派生してきたもので、腸の表情と顔の表情は同質のものである。

 内臓は腸管の溜りになった。心臓は植物で言えば、光合成をつかさどる太陽のようなもので、それは自律神経によって制御されている。肺は自ら呼吸をすることができない。ここは空気の溜まり場である。呼吸をするには動物系の筋肉系が、肺の場合には、横隔膜、肋間金、横腹筋、腸腰筋の連動で行うものである。

 ぼくらの中には植物系と動物系という先祖がある。このことは解剖学者であり、形態学の三木成夫から学んだ。

 植物系と動物系が縦糸と横糸に織物のようになっているのがぼくたち人間である。したがってぼくたちは内臓系の心と感覚系の心が織物のようにあると言えるのだろう。

 禅をする、瞑想をする、というのは極端に言えば植物系に戻ることではないか、と思うときがある。

 運動をするときは動物系をフルに使うことである。

 どちらも偏りすぎると不調になるように思う。プロとしてのスポーツは体には悪いだろうといつも思う。あるいはまた修行のように瞑想するのも本当は体にはよくないことだろうな、と思う。

 もしくは、運動をするなら、それに相当する植物系の時間が必要だ。逆に行動停止している人は運動が必要である。

 私たちは現場の専門家ではないので、あくまで比喩的にいう他ない。

 このような比喩は、比喩的に捕まえるというのはとても重要だと思う。詩も絵画も、優れた芸術は比喩的である。



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