25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

近代化

2018年06月23日 | 文学 思想
 旧約聖書を読んでいると、律法の厳しさと守れない人々。領地の奪い合い、残虐な皆殺し人とー家畜殺し、信心が強い戦士と信心の弱い民に起こる様々な不幸そして平安の話が延々と続く。ルツ記に入ってようやく希望の明かりが示され、いよいよサムエル記上に入った。旧約の終わりまでの道程はまだまだ長い。
 1日に4、5ページ読むだけであるが、上下段で、字も小さいので、余計そのように思える。

 明治維新で日本は近代化を図った。明治政府の近代化とは軍隊と経済、そして最後に憲法だった。キリスト教も解禁された。しかし西洋の精神をよくよく考えたという風には思えない。鹿鳴館を作り、ワインを飲んでも西洋人になれるものではない。精神を理解するには時間がかかった。を

 海で囲まれた日本列島は他国の侵略を受けることがなかった。明治政府も侵略を免れた。
 一方現イスラエルやパレスチナの歴史を見てみると絶えず侵略と奪還の繰り返しで、奴隷ともなり、京都と思われるようなエルサレムが消滅し、時を経てまた再建されるという悲惨な歴史である。このような歴史の中、いわば旧約聖書を土台として拡がったキリスト教は近代化の根本的なところに人々の遺伝子に刻み込まれているように思える。

 「近代化」という言葉をぼくらはよく使うのであるが、日本の近代化は激しい迫害や虐待への困難な闘いを国民がしたわけではない。徳川家政権から天皇を頂点とする太政官政権に替わり、富国強兵、西洋に追いつけ追い越せで武士たちによる中央集権化だったのである。

 侵略されたことのない日本は朝鮮や中国に侵略したとき、とくに朝鮮が植民地化され、姓名や言語まで強制された経験とその屈辱はいかばかりもものであるかは旧約聖書を読んでいると、よくわかる。恨みという意識に日本人は疎いのではないかと思う。生ぬるいのだと思う。被差別経験もないから実感としてわからないのだ。聖書の神は容赦がない。

 さて近代とは何か? それは西洋化である。西洋化とは何か。物的には軍事、経済、科学の優勢であった。また西洋外見を真似した。
 戦後になって制度として民主主義が導入された。はじめて近代の精神が制度になったのだと思う。おしなべて見れば日本は穏やかな国であった。西洋人からは「おとぎの国」のように見えた。道徳もあった。日本を訪れた西洋人は人なつっこい人々や清潔な農村を見て、その礼儀礼節をみて西洋のようにならないようにと書き述べた。平穏な文明を築いていた江戸期はペルーの来航で武士たちが混乱した。擬制の近代化は日露戦争で気を良くさせ、日中戦争と太平洋戦争で終わった。軍人は滅んだ。伝統を守るためには西洋の精神も学んだ上で吟味することが必要となった。西洋の精神にはキリスト教教育が骨身にまで染み込んでいる。日本列島人はおおらかであった。西洋人はいきぐるしいほど厳格であった。男女の混浴にも怒った。

 そんなことをつらつらと考える。聖書は激烈である。この激烈さのうえに西洋やイスラム教がある。宇宙の法則を悟る仏教はすでに力なく、多くの神々は自然に戻った。仏教や神道を利用した商売だけが残った。飢饉からくる貧困も戦後経済成長で克服した日本である。
 まあまあうまくやってこれた日本である。豊かな四季を持っている列島である。ゆめゆめ加害者であったことを忘れるな。地続きの国境のある国は根本は激しい。我々のような呑気さや疎さはない。


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