25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

偶然

2015年01月06日 | 文学 思想
 偶然に何かが起こることがある。おそらく偶然な出来事が僕らの日常の生活で数多く、毎日のようにどこかで起こっているのだろう。僕は占いも、血液型も、霊も、神というものに引き寄せられている人間ではない。宗教物は文学として読むぐらいのもので、特に信仰しているわけでもない。

 以前、「雲を動かす」という文を書いた。バリ島で毎日毎日雨が降り、知り合いの息子の結婚式は野外で行われるため、ほとんど無理だと思っていたのが、その結婚式の日、しまおいよいよ始まるというときに雨が止んだ。僕の周りの人は「あそこはお金持ちだから、祈祷師を何人も連れてくることができるんだ」と言った。人間の「雲を動かす」という意思は自然のなにかに影響を及ぼすのだろうか、とは思えないので、僕はそれを「偶然」と理解しただけであった。熱帯の天気図は読みやすいのかもしれないとも思ったのだった。

 今度は違う話だが、僕はお金に窮している時期があった。著作権を売り、CDや本、切手などを売り、青空マーケットにいき、売ってしまおうと思うものも売ってしのいでいた。48歳ぐらいのときである。子供のうちに一人は高校生で、下の息子は中学生であった。僕はお金に困っていることなどは全く言わず、毎日を淡々と生きていた。
 ずいぶん年上の先輩に慕われ、飲みに行ったり、食事に付き合ったりしていた。ある日、僕は「能」を見たいと激しく思った。
 能を観たことなんて一度もなかったが、どうしようもなく観たいと思ったのだった。京都で行われるもので、尾鷲から行くにはお金もかかる。

 食事処でその先輩と酒を飲んでいて、「ああ、能がみたいなあ」と僕は言った。ただ言っただけで物乞いをしたのではない。彼は、お酒も入っていて、気が大きくなっていたのか、「榎本さん、100万円やる」と言った。酒の席の冗談だろ、と思ったら、彼は真剣な目をして、「これは本当だよ、明日もっていく」と言った。そしたら、本当に翌日100万円もってきた。くれたのだ。

 僕は激しく、強く思えば、天からその見えない形のものが形となって現れてくるものなのか、と思ったのだった。それで京都まで「能」を観に行ったのである。世阿弥の「花伝書」も読んでいた。能は奇妙に眠気を誘い、うつらうつらしていると目に入ってくる光景というものはカメラでよいところを撮るように目に残るのだった。僕は彼にこんな時間を与えてくれたことに感謝した。残りのお金をどう使ったか今は憶えていない。たぶん生活費に当てられたのだろう。

 しばらくして、「どうして100万円くれたのか」と僕は彼に尋ねてみた。僕が能を観たいからあわれに思ってくれたのか、という僕のほうの思いがあった。「ワシはポンとお金を使ったことがない。性分は始末屋でケチなんだ。それで一度、ポンとお金を使ってみたかったんだ。それだけだよ」と言った。

 その後、2年ほど経って、彼は病気になった。難しい、得体のしれない病気であった。病院を次々と変えた。和歌山、東京、名古屋、伊勢と入院と通院を繰り返した。2年ほどの期間だった。その度に僕は彼に付き添った。あの100万円はそんなことを予見していたのだろうか、とも思った。彼は今はこれまでの生活を改め、足の痛さも和らぎ、元気にいる。

 これも偶然のことなのだろうか、と今でも思う。人間のこころから発する意思、感情、人間同士や人間対動植物なら、交信することが可能なのだろうか。  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿