25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

総無責任国家日本

2018年04月23日 | 社会・経済・政治
 麻生財務大臣は若い頃も熟年になってからも勉強してこなかったのだと思う。未曾有を「みそゆう」、踏襲を「ふしゅう」、頻繁を「はんざつ」詳細を「ようさい」.有無を「ゆうむ」.措置を「処置」思惑を「しわく」、破綻を「はじょう」、順風満帆を「じゅんぷうまんぽ」、低迷を「ていまい」、焦眉を「しゅうび」と誤読した。
 お笑いの世界だったらおもしろい。あきれるばかりだ。この人のダメなのは、ある時期に勉強しなかったということで、それが日本国の総理大臣までできるということだ。田中角栄のように数字や人の名覚えが得意だったわけでもない。
 この人の顔つきの悪さにも驚くが自民党内で着々と派閥を拡大していることだ。
 もちろん、日本会議のメンバーであり、朝日新聞嫌いの極右である。戦前も憲法に一度戻すべきだと思っている。
この人をみていると、日本はどこにも未来がないように思えてくる。無責任でもある。

 日本人にはが一般人から組織人、官僚、政治家まで責任を取らないという因習がある。昨日曽根の海に廃船が海に放りだされ、一部は波でか陸上がって山積みになりつつある。船を持っていた人の無責任さである。教員が不祥事を起こせば、自分で謝罪せず、教育委員会の上のものが謝る。医師もそうである。東電もしかりである。国に助けてもらう。日航も同様。福田事務次官にしろ、どうせ退職金はもらい、どこかにあまくだりでも、いずれするのだろう。佐川元理財局局長は責任回避のためにあも手この手で逃げることだけを考える。

 思えば日本大衆史(アフリカ的段階からアジア的専制の段階)では大衆が責任をとるということはなかった。権力者が治水工事などのインフラを整備した。年貢はとったが、それは強制的な義務であった。明治維新も大衆が関わったものではない。武士の闘いであった。
 遊園地の遊び道具に不備があれば、オカミに文句を言う。崖から落ちれば何で柵はなかったのかとオカミのせいにする。子供の腕引っ張れば、暴力だと学校に文句を言う。
 子供が自殺すれば学校だけのせいにする。電車ホームで落ちる人がいれば高いお金をだして柵をつける。
 こんな無責任な国に自分たちで権利や自由を勝ち取った経験がない。国民自らが民主主義を勝ち取ったわけでもない。
 これがその体たらくぶりだ。総無責任社会となった日本に明日はあるのかといいたいくらいだ。自分で使った船くらい自分で始末しろよ、とブツブツいいながら道を歩いたのだった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿