25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

人間の存在の倫理

2018年03月14日 | 文学 思想
 例えば、少年が異常な殺人を起こした事件が報道されると、両親の関係はどうだったか、胎児から乳児にかけての期間、母親の心的状態はどうだったかということを思ってしまう。母親という個人と乳児の物語は、乳児のほうに合わせないと人間は一人前になっていかないからだ。人間は未熟のまま、中途半端に産まれる。乳児はお乳がほしい。母は忙しくてそれどころではない。乳児は眠くて泣いてしまう。母はイライラする。乳児は母に抱いてほしい。母はそんな時間がない。あるいは夫がお金をもってこない。これからどうするだろうというような経済的不安の事情もあるかも知れない。このように母の物語はその時の母の状況によって、乳児の物語と齟齬や背反を起こすことがある。
 すると、愛情ホルモン(脳から卵巣、卵巣から全身へとめぐる)が不活性となるかもしれない。一方乳児の脳、特に自律神経の中枢である視床下部やブローカー言語野、ウェルニッケ言語野、聴覚野
などに影響を及ぼすことだろう、とぼくは理解してきた。
 ところがこの問題に深入りすると、このような母を作ったのはその上の母であり、さらにその上と行ってしまうと、生命の偶然なる誕生のところまで行ってしまう。父親にしてもそうである。そしてそれぞれに時代の社会的環境がある。
 犯罪者である少年を法で罰するのは起こしてしまった本人である。父や母は刑罰の対象から外される。しかし、このような事件を他の少年に起こさせないためには少年が犯罪に至った本当の理由というか、精神の深いところを知る必要がある。だから親が悪いとなるのだが、親が悪かったら、その親の親も悪いということになってしまい、先にのべたように最後には偶然としかいいようがない生命の誕生まで遡ってしまわざるを得ない世界に行ってしまう。これでは埒があかない。
 親に「産んでくれといった覚えがない」「勝手に産みやがって」と反抗しても、それが空しい言葉だということは子供はなんとなく知っている。そして人間は嫌でも、好んででも生まれてきたからには、この世に存在するだけで、他者や社会に影響を与えるという倫理をもつことになる。
 ぼくも少年の犯罪は親も相当に責任があると考えてきた。ところが「生まれてしまった人間、この世にいるというだけで人間の倫理はある、と考えれば、ちょっと考え方を変える必要があるのか、と今この時点で佇んでしまった。
 このことを考えると、話が飛躍し、極端に思われるかもしれないが、戦争という超法規的な殺人は人間の存在の倫理に反する悪と考えることができる。乗客を乗せたまま世界貿易センタービルに突っ込んだテロリストも、「新しい戦争だ。正義の戦争だ」といって国民国家が戦争を行うのはもっと規模の大きな悪となる。人類の新しい段階として、戦争を観念的に追放しようとすれば、この問題を深く考え、意識されていくことが必要なのだろうと、思い至っている。また、


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