25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

宗教のこと

2017年05月11日 | 文学 思想

 現代に生きていて、個々人の意識は違いがある。例えば「天皇は現人神」であって、その神に忠孝を尽くす、私よりも公を重んじようという極右の考え方はアフリカ的段階からアジア的専制段階、また中国で普及した儒教的道徳を歴史的意識を持っている。

 天皇家は各界の著名人に叙勲を与えて、象徴天皇家を継いでいこうとしている。

 しかしながら、傾向として、天皇も人間なのだから普通の人間らしい生活を送り、離婚することにも束縛っsれず、自由にやっていいのではないか、というような意見もある。ぼくには一般的庶民の感覚は天皇は尊重づるけど、それほど大きな存在ではないという傾向にあるように思える。

 西洋や中近東の人々は一神教で、日本は八百万の神である多神教で、宗教文化が全く違うという人もいるが、どの宗教も、アニミズムから始まり、自然崇拝になり、多神教を経て一神教となって世俗化している。ただ一神教の民は地理的、風土的に農業社会を維持するのが難しく、より厳しい戒律を設けて多神教から一神教に移っただけのことで、元をはと言えば、アニミズム、自然崇拝、多神教という道筋を辿っているおは日本も変わりはない。

 天皇という宗教的権威に、仏教や儒教が乗っかったというのが日本らでぃさと言っていいのかもしれないが、それが優秀であるわけでもない。優秀であったら先の戦争などはおこらなかったはずである。

 「 日本会議の研究」(菅野完)や「日本会議の正体」(青木理)を読んでみたが、物足りなさが残るのは、もっときちんと反論するとか、思想に対して青木たちがどう考えるのかわからないことだ。

  誰が事務総長で、それが元成長の家を出自としている。日本青年協議会の実体をいくら書いても、彼らは迷妄のまま活動を続けるだけである。彼らの草の根運動は一種の宗教心から発しているからだ。

 神話が本当か作り話しか、というところから論議を再度始めないと、我々はまた天皇収斂されていくことにもなる危険性がある。

 憲法論議となると、必ずやこの問題は出てくる。暴力なく、自由に論議ができる環境できなければならない。マスコミもこのようなことには及び腰である。そして言論の自由度はますますメモリが小さくなっていく傾向にあるよう思える。

 

 



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