25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

父親

2015年03月18日 | 日記
 知り合いの息子が大学受験である。
 僕は娘のときも息子のときもいわば気にかけていない、というよりは、それは本人のことなので、頑張れとか、どうしてるか、とか一切言わなかったし、言う気にもならならかった。どこでもよい、と思っていたのである。大学というのは4年間を自由に過ごす、ということに意味があって、就職のためであるとかなんとか僕は考えたこともないし、自分でも学生の頃思ったこともなかった。
 それで、知り合いの男性がまだ結果もでていないのに、会えば、その話題になり、失敗すればどこの予備校がよいか、などと話してくるのを違和感をもって聞いている。世の親がだいたいこんな風なのか、あるいは結構特別な男親なのか、わからない。

 勉強は「ああ勉強しておくべきだった」というときに勉強できる教育のシステムがあればいいと思う。自分なんてわからないのだから、自分は何に能力があり、何に適しているのかわからないから、働き始めて、「ああ、もっとこういうことを知りたい」と思ったときに勉強できるシステムがあればよい。例えば勉強する意思さえあれば、どこの大学でも受けいるとかである。
 「何を、なぜ、勉強したいのか」という質問に対して学びたい人はそれをはっきり言えればいいように思う。

 大学の教師はひとつの大学にいるのではなくて、交替して、各地の大学で教えればいうことはない。そうなれば大学の格差なんていうものはなくなってしまう。

 今の受験生たちはどんなことを思い勉強しているのか、全くわからない。「末は博士か大臣か」などと思ったことはなかったけれど、相撲部の先輩が京都大学に行き、それから官僚になって、やがて天下ったとき、彼はそう思っていた。当時の受験生はみなそう思っていたよ、と言ったので、「へえ!」とびっくりした。

 18歳や19歳ぐらいのときって、頭には薄い膜のようなもので被われていて、なんだか、今のの自分ではない、何か別の生き物であるような時だ。社会なんて針の穴ほど程度にしかしらないし、どう生きていけばよいのやら、想像もつかず、暮らしていた。しっかりと目標をもって、それをやるぞ、などと思う人間などは近辺にいなかったように思うが、内心ではその先輩もある目標をたてていたのだろう。

 自分は親としての子育てはまあまあの点数が付けられると思う。完全な子育てなどはないし、子育てに夢中になると子供を精神的にも窮屈であろう。ただ、僕の場合、父遠洋船に乗っていたものだから、父とどう接していいかわからず、それがなかったものだから、父としてのありかたがわからなかった。父がたまたま帰ってきて、在宅していると窮屈でしかたがなかった。それで、ひとつのことだけは徹底することにした。できる限り自由にさせる。窮屈さを感じさせない。それと「必ず守る」と。「必ずどんなことがあっても応援する」と。今もそう思っているが、
この前は息子に助けられた。
 



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