25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

ストレッチは是か非か

2015年01月23日 | 日記
 羽鳥操の「野口体操入門」の本を読み、再び甲野善紀と松村卓の「筋肉より骨を使え」を読んだ。もちろん仕事のためである。二度目読むと以前見過ごしていたことがわかる。良い本というのはていていがそうだ。小説しかりである。
 「からだとこころは一体」ということもわかる。「骨折り損のくたびれもうけ」もわかる。「気骨」「骨身にしみる」という言葉も知っている。昔の人はこれらの言葉をどのようにしてつくりだしたのだろうか、と不思議におもう。骨は目に見えないから我々は筋肉を重視してしまう。
 野口体操では骨は重視されていないが、きっと甲野や松村は一歩進めて「緩んだ筋肉と瞬時に収縮できる動き」のありかたを唱えている。スポーツにも芸術活動にも応用できるこの骨ストレッチが普及するまでどれほどかかることだろう。筋肉を鍛え上げることでどれだけの選手が怪我で泣かされていることだろう。これからも筋肉トレーニングは続くのだろうか。体幹トレーニングまででてきて、肝心の「やわらかさとバランス」のトレーニングが欠けている。

 からだの動きのコツを掴むというのは「骨を掴む」のと同じことではないかと思うとなるほどそうかな、と思わせる。
 マグロは水の抵抗力のある中を早いスピードで動く。なぜなのか。ライオンは昼は寝そべってばかりいるのに、夜中には獲物を狙って猛スピードで走る。
 人間のからだのことを科学的に立証していくことの難しさ。それほど複雑極まりない身体やこころのことは今のところ、「成果」を見せることでしかない。
 京都の壁塗り職人が壁の表面をでこぼこもせずに塗ることができる。その職人は70歳を過ぎていた。若い職人はそれができない。親方もどう教えていいのかわからないので、見て、体験して、からだで覚えろとしか言えない。若い人はやめていく。そこで京都工芸大学は職人の動きを撮影し、分析してみた。すると、まず重心の移動がスムースに「できていることがわかった。そして疲れないように、疲れないようにと思っているいるうちに体得したのだろう。

 やがて、骨ストレッチも解明がなされていくだろう。しかしまたある限界点までくると新しいさらに成果のあがる方法をだれかが見つけるのだろう。

 昔の人間ならやっていたことを近代に入ってからの人間は「原初生命体としての人間」の復活をこの両書とも言っているように思える。
 話は違うが、プロのピアニストが弾くピアノ鍵盤の音と相当上手な素人のピアノ名人が弾くのとでは音がまるで違う。おそらく身体の使い方とこころの使い方が全く違っているのだろうと思う。
 なんだか勉強になったこの2日間であった。友人がDVDを貸してくれたので、それも興味をもって見た。たいへん役立ちそうなので、主婦の店の前で妻の買い物中、骨ストレッチをやっている。普通のストレッチが筋肉の過緊張を起こし、バランスを崩すからだ。しかししっかりと科学的には解明されていない。解明されることの難しさを思う。人間は目で物をみるだけで筋肉は緊張するし、意識するだけで、妙な具合になってしまうという生き物である。
 おもしろい人たちがでてくるものだなあ、と嬉しい。