Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

岩波ホール「ユダヤ人の私」

2021年12月20日 | 映画
 ドキュメンタリー映画「ユダヤ人の私」を見た。アウシュヴィッツ強制収容所など4か所の収容所を転々とし、ブーヘンヴァルト強制収容所(ヴァイマール郊外)に収容されていたとき、ドイツが敗北し、解放されたマルコ・ファインゴルト(1913‐2019)の証言だ。

 真っ暗な空間の中にファインゴルトがただ一人いて自らの体験を語る。ナチスに捕らえられるまでのこと、強制収容所で見たこと、さらには戦後、ユダヤ人難民をパレスチナへ送り出したことなどを、淡々と、ときにはユーモアを交えて。撮影時には105~106歳だった。驚くほど元気だ。そして撮影終了後、亡くなった。

 ファインゴルトが語る主要なことは、1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合のときのウィーンの光景だ。大勢の市民が歓呼してナチスを迎えた。ファインゴルトもそこにいた。当時の映像が挿入される――。広場を埋め尽くす市民たち。みんな右腕を掲げるナチス式の敬礼でナチスの行進を迎える。老若男女を問わず熱烈な歓迎だ。

 ファインゴルトは戦後、その光景を語り続けた。だが、それは「ナチス・ドイツに併合された被害者」としてのオーストリアの主張からは不都合な証言だった。ファインゴルトは歴史修正主義者や反ユダヤ主義者たちから誹謗中傷や脅迫を受け続けた。いまの日本にあふれかえるヘイトスピーチと似ている。

 それにしてもファインゴルトにむかって、「ホロコーストはなかった」とか「お前たちは戦争中、強制収容所で安全に過ごした」とかいう人たちがいる――。そのことに言葉を失う。オーストリアだけではなく、日本をふくめて、世界中の国々は、第二次世界大戦を経ても、根本的には何も変わらなかったのだろうか。

 本作を制作した4人の共同監督は、本作の前に「ゲッベルスと私」を制作した。ナチスの宣伝相ゲッベルスの秘書だった女性の証言だ。ファインゴルトと同様に撮影時には100歳を超える高齢だったその女性は、意気軒高に「私は秘書としての仕事をしただけだ。ホロコーストのことは何も知らなかった」と語る。ハンナ・アーレントが「悪の凡庸さ」と喝破したアドルフ・アイヒマンと同じ言い分だ。「ゲッベルスと私」は「ユダヤ人の私」の上映期間中は毎週日曜日の午後3時半から上映されている。「ユダヤ人の私」をご覧になった方で「ゲッベルスと私」を未見の方は、ぜひご覧になることをお薦めする。

 ファインゴルトは戦後、ザルツブルクに住んだ。地元では高名だったのだろう。市内に流れるザルツッハ川にかかる橋のひとつが「マルコ・ファインゴルト橋」と命名されている。以前は「マカルト橋」と呼ばれていた橋だ。最近名前が変わったらしい。
(2021.12.18.岩波ホール)

(※)「ユダヤ人の私」の公式HP

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