Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ショスタコーヴィチ交響曲第7番

2010年05月12日 | 音楽
 読売日響の5月定期はテミルカーノフの指揮でショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」。テミルカーノフは今回で4回目の客演になるとのこと。私も以前にきいたことがあり、そのときも好演だった。

 第1楽章冒頭の「人間の主題」は、レガート気味の伸びやかな歌い方。昔のような(たとえばトスカニーニの時代のような‥)切迫した歌い方が記憶に残っている身としては、時代の変わりようを感じざるを得ない。
 例の中間部を経て、再現部のファゴットのソロになると、演奏は深く沈潜し、息苦しくなるほど。その緊張感はコーダまで持続した。

 第4楽章に入って、不気味な序奏部を経て、急速なテンポで激しく追い上げる部分では、リズムが崩れず、音も混濁せず、見事な一体感だった。最後の輝かしいエンディングでは、絶叫にいたる一歩手前で踏みとどまっていた。

 終演後は割れるような拍手。オーケストラが比較的早めに引き上げたこともあって、テミルカーノフは舞台に呼び戻されて、拍手を浴びていた。

 あとは雑談になるが――
 この曲はショスタコーヴィチの交響曲のなかでは、今では第12番と並んで、一番の難物になっているのではないだろうか。それぞれちがう意味ではあるけれど、この2曲をどう理解すればよいのか。第12番は――言葉は悪いが――意図された駄作と考えることもできそうだが、この曲の場合はどうか。

 もちろんレニングラード包囲戦のさなかに書かれたという特殊事情があるわけで、それを忘れてはならないが、その意味するところは、同胞との連帯ということ以外に、スターリンの恐怖からの一時的な解放ということもあった――そのことは、この曲の気分に反映していると思われる。

 基本的には第5番の路線上にあって、第5番を疑いの余地なく楽天的に鋳直したむきがある。
 そうであるなら、第5番にヴェルディのオペラ「オテロ」の1節がはめ込まれているように、この曲にもなにか仕掛けがあるかもしれない、と思われてならない。

 一笑に付されるかもしれないが、私には第3楽章の冒頭、木管とホルンのコラール風の音型の後に出てくる弦のデクラメーションの音型が、フランツ・シュミットのオペラ「ノートル・ダム」の間奏曲に似ているように感じられるが、どうだろうか。もしもそうだとすると、例の「戦争の主題」がレハールの「メリー・ウィドウ」のパロディだという説ともども、ナチスに好まれた作曲家の暗示ということになるけれど。
(2010.5.11.サントリーホール)

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