アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

684 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)④ 八つ橋 聖護院 

2020-04-17 08:54:50 | 日記

④ 八つ橋 聖護院

 天皇の皇子や親王家の王子でも、継承者(皇太子など)でなければ摂関家などの高級公家の猶子になるか門跡寺院に入る。多くは若くして出家して仏門修行に専念することになる。誠に過酷な運命である。光格天皇も閑院宮家に生まれた時、第6皇子であった為、いずれ聖護院に入寺することが決まっていた。しかし、後桃園天皇の崩御時、まだ出家していなかったなど諸条件を総合的な判断からから急きょ即位したのである。
 その聖護院近くに京菓子の定番である「八つ橋」の老舗が集中している。聖護院の門前西には「本家八つ橋西尾老舗」、丸太町交差点に「聖護院八つ橋総本店」がある。「井筒八つ橋本舗」は右京区に本社、四条川端に大きな店がある。近年は、「生八つ橋」と言われる柔らかい八つ橋が主流だが、硬い板状の八ツ橋が本来の八ツ橋だ。米粉と砂糖にニッキの粉を加えたものを板状にのばして焼いたものを本来「八ツ橋」と言う。その形が、そりがあり、川にかかる橋を現わすと言う説がある。三河国の川に八つの橋を架けた「八つ橋伝説」による。また、琴の名手である八つ橋検校が亡くなった時に、彼に因んで琴の形をした菓子を作ったものと言う説も有力だ。「橋」なのか「琴」なのか焼いた八つ橋の形を見ていると、いずれにも見えて来る。
 
本家八つ橋西尾老舗は「あんなま」シリーズ

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聖護院八つ橋総本店は「古都の○○」シリーズ

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井筒屋は「生八つ橋夕子」、下は最近発売のミルキー味の八つ橋

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  大正天皇即位行事の時に、「五色豆」と共に一気に全国的京菓子になったようだが、現在のバライティーに富んだ生八つ橋の隆盛は第2期だと言える。上記3社が有名だが、最近本家と本舗で訴訟事件があり話題となった。我々には関係なく、おいしい生八つ橋を頂ければそれで良い。筆者も東京への土産にはこれをよく買うが、実は自分が一番食べたいからである。

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 本編で書いたように光格天皇は、即位後すぐに天明の大火で御所を焼失している。その時にくしくも聖護院を仮御所(避難場所)にしている。菓子好きの光格天皇は、皇室御用達「虎屋」がおさめた多くの菓子に銘を与えている。いずれも「長月」や「村紅葉」「滝の糸すじ」など味だけでなく季節や浮かぶ風景なども考えた名前を付けている。(虎屋HPより)仮御所で過ごした間に、近くの八つ橋を所望したかも知れない。いや、きっと食したに違いない。ぜひとも現在の甘い餡を包んだ生八つ橋を食べて頂き「銘」を頂戴したいものだ。

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683 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)③ おせき餅 鳥羽街道

2020-04-15 20:49:41 | 日記

③ おせき餅 鳥羽街道

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 後鳥羽上皇は、承久の変を仕掛ける為にしばしば笠懸・流鏑馬と称して「城南寺」に兵を集めた。城南寺とは、鳥羽離宮辺り(現在の城南宮近辺)にあった寺で平安京朱雀門からは鳥羽街道(現在の京阪国道)を3キロほど南下したあたりにあった。その街道沿いに、「おせき餅本店」がある。
 現在は、城南宮の門前菓子となっているが、450年ほど前に街道沿いで、おせきという娘が「茶屋」を営み旅人に売っていた餅である。おせきは編笠の裏に編笠の形をした餡餅をおいて食べさせた。その工夫と味が大変な評判であったようで多くの旅人で賑わった。現在は、白いお餅とヨモギのお餅のセットで提供している。餡は程よい甘さの粒あんで餅は意外に腰が強いので、特にヨモギ餅は噛んでいる内にヨモギの味わいがする。店内では抹茶や煎茶のセットでいただく。おはぎも同じように店内でいただけるので合わせて食べて帰りたい。(同伴者と分ければ二つ味わえる。)

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 この場所は、承久の変だけでなく南北朝時代でも幕末でも京都と大坂の行き来に使われた街道で、多くの武士や公卿、また勤王の志士なども行き帰りのひと時、おせき餅を食べたかも知れない。新選組の近藤勇が立ち寄ったのは記録に残っている。後鳥羽上皇はどうだろう。450年前?承久の変は、800年以上前なので、残念ながら後鳥羽上皇たちは食べていないが、江戸時代の皇族がお忍びで食べていたかも知れない。もしかしたら大阪へ使いに出かけた側近がお土産にして、天皇や高級公家が食した可能性はあるだろう。

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682 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)② みたらし団子

2020-04-15 08:13:27 | 日記

② 亀屋粟義 「みたらし団子」

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 今や全国どこでもある夜店の定番「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗川(みたらしがわ)が由来となっている神聖な門前菓子なのである。下鴨神社東側の下鴨本通りに「加茂みたらし茶屋」という看板を挙げている亀屋粟義は日本全国のみたらし団子の元祖だとされる。五つの団子は人間の5体を現わしていて、うち一つだけやや離れて刺してある。それは人の頭を意味していて後の四つは、四肢を現わすと言われている。これは後醍醐天皇が、建武新政の時に下鴨神社を訪れ、境内糺の森の中にある御手洗川で手を漱ごうとしたとき1つの泡が出てきてその後続けて4つの泡が出て来た。その様子を模したものだとも言われている。また、その昔、葵祭の主役である「斎王」が手を清める為に川に手を入れた時の水泡を形どったものと言う説もある。

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 いずれにしても神聖な菓子が、庶民の大人気の定番菓子になったのである。関東では醤油のつけ焼きで食べるが、こちらは黒砂糖をとかせたとろみのある独特の甘みのある蜜で食べる。夜店で子供たちが服に垂れて汚すのも構わず食いつく姿はおなじみである。ただし、「加茂みたらし茶屋」の店内でいただくみたらし団子は、楊枝で一つずつ丁寧に上品に頂くのである。


 戦乱から戦乱に生きた後醍醐天皇が、この団子を食べたとは思えないが、戦場においての非常食にしたかも知れない。後醍醐を起源にすることになったのは、歴代の南朝方の公家たちが必勝を祈願するために下鴨神社を訪れ、その時に好んで食したと考えたい。

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681 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)① 麦代餅

2020-04-14 07:59:06 | 日記

① 中村軒 「麦代餅」

 
後水尾天皇の項で書いた八条宮智仁親王は、「桂離宮」の造営で有名だ。後水尾天皇は叔父の「桂離宮」を参考にして、「修学院離宮」を造ったのである。智仁親王は、正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。後陽成は譲位してこの弟に即位をさせたかったのだが、智仁親王は以前豊臣秀吉の猶子となった事があり徳川から拒否されたのである。その後、八条宮家(桂宮家)を創設したのだが、お二人とも徳川幕府の発足時において、その絶対的権力の構築時に立ち会ってしまったのである。


その桂離宮のすぐ南、八条通りと桂川の交差する西南角にある「中村軒」の麦代餅を紹介したい。店先には、峠の茶屋風の吹き流しのれんがかかっている。カウンターには、紅白饅頭や御餅に加え、赤飯や粽などの定番のものが並んでいる。昔、関西では「赤のれん」と言われるそのような店では、陳列の奥で、うどんや丼を出していた。どの町内にも必ずあったものである。「中村軒」では、奥の間では観光客など団体さんにお茶を振舞っている。
麦代餅は、素朴な菓子で、甘い粒あんを柔らかい平べったい餅で包んで特製のきな粉をまぶしている。甘いけれど上品な後味の餡ときな粉の風合いが実によく合う。適度に柔らかいお餅が歯に心地よい。お店は明治初期の創建だが、麦代餅は昔から近所の農家の田植え時期のおやつ・昼食代わりに食べていたもののようだ。その時には代金をもらわず、農閑期を終えた夏になって麦を代金代わりにもらったらしく、その名は、それに由来する。庶民由来の素朴なお菓子である。お店の独自の名物は、「かつら饅頭」だがこれも落ち着いた味わいがうれしい。桂離宮散策の帰りには是非食べて帰りたい。

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智仁親王も麦代餅を食したのだろうか。もともと下桂のこの周辺は八条宮家の領地であった為、山荘造営以前から度々来遊していたと、自身の日記に書き記している。当然、行き帰りに庶民の様子を垣間見ただろうし、後水尾天皇からも一目置かれた人格豊かな親王なので、造営時には地元民の協力を得たことだろう。何かのひと時、麦代餅を一緒に食べている風景を想像して見た。

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番外  現在の国家援助は、先での「増税」を覚悟すべきだ。

2020-04-13 12:53:16 | 日記

えらい事になった。

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生きているだけで丸儲け!と、言ったら本当に生きてることに大変な時代が来てしまった。筆者も、当初なめていた。コロナで死ぬより経済破たんで死ぬ人のことも考えよ!と、書いたが、生きていてこそと考えるようになった。在宅率が高まり自室にこもっている。普通に出かけて、会社にも時々行く(非常勤 勤務)ことの幸せを今頃感じる。

しかし、保証!保証!の嵐だ。これには異議ありだ。国家の保証は平等性が基本であり、被害・損害が国民の自己責任にあたらない場合には税金で補填することは当然だ。しかし、相互援助の考え方に立つと一部の気の毒な国民に多くの国民の税金を使う。その場合、一人の国民には少額の税負担だ。ただし、現在はほぼ全国民が被害を受けている。大半の国民の被害に。税金を投入することには違和感はないか?

 

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自己責任と他者援助との関係に無理がある。何でもかんでも「国に助けられる。」のならば、普段の経済活動での納税を高くするのは当然で、「増税反対だ。しかし国家援助を。」というのは矛盾だ。全員ではなくとも、普段儲けがあっても赤字にして納税を逃れている事業者も多い。納税していて貯えも十分に保有している人もいる。それでも、即・すぐに「助けてくれ。」と言うのか?

一方、サラリーマンは固定給だが好景気でも急には収入は増えない。従って、貯えを持っていなければならない。(退職金がそれだ。)片方、自営業者は、大儲けするかもしれない。まさに「水商売」なのだ。最低保証はない。リスクとメリットの関係は明白だ。サラリーマンには大儲けはない。緊急的な支援金は仕方ないが、その後の援助議論は、該当者の「貯え」を加味して考えて欲しい。たっぷり財産をもっていながら苦境に陥っている振りをしている「やから」達を除いてもらいたい。

それにしても、マスコミのポピュリズム化は高まる一方だ。マイナンバーカードにあれほど反対していたコメンテーター達が、今こそそれを生かして、すぐに援助金を払ってやれと言う。消費税の反対運動を行っていたくせに、国家の援助については率先して訴える。矛盾はないのか?

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海外でのコロナ死亡者は、圧倒的に移民や黒人などマイノリティーに多いと聞く。これが現実である。日本はそこまでの過酷な状況ではないが、全員を税金で救う事は出来ないのである。数年後、国家衛生向上の為の増税を行うことを覚悟せねばならない。国という人物はいないのだ。国のお金は国民の血税なのだ。援助を求めるならば増税も認めなければならない。その覚悟があるのか。中小法人の脱税は許されないのである。

 

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