逆順でたどる平安京の天皇たち
53代 淳和天皇 一瞬の平和 唐風文化の時代
兄嵯峨天皇の時代、「薬子の変」で、平城天皇の皇子高岳親王の皇太子は廃された。従って、当時まだ嵯峨天皇の皇子がいなかったので、後の淳和天皇が皇位を継承した。因みに嵯峨上皇はその後50名以上の驚異的な子作りを行う。次回詳しく書く。
第53代天皇
在位期間 823年6月9日 - 833年3月22日
元号 天長 先代 嵯峨天皇 次代 仁明天皇
誕生 786年 崩御 840年6月11日 陵所 大原野西嶺上陵
別称 西院帝 日本根子天高譲弥遠尊
父親 桓武天皇 母親 藤原旅子
皇后 正子内親王 高志内親王(贈皇后) 子女 恒貞親王ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居 平安宮
淳和天皇は、「大伴親王」という。なお、大伴氏はこれを恐れ多いと「大伴」から「伴」に改姓した。従って「承和の変」の首謀者とされた伴健岑は大伴氏である。(筆者は長く大伴氏と伴氏の関係を知らなかった。)淳和天皇の時代はひと時の平和な時代で、天皇は皇室の財政構築の為、地方の長官に優秀な官吏を多く登用し勘解由の設置を再開し善政に務めた。
謀反人の長兄平城天皇、絶大な存在感の次兄嵯峨天皇(いずれも異母)に対するライバル心もあったと推察する。
当時、皇室の結束を固める為であろうか近親相関の時代であった。例えば、皇后正子内親王は兄嵯峨天皇の皇女でありつまり24歳下の姪との結婚だ。また、準皇后の高志内親王は桓武天皇の皇女なので兄妹(勿論母は違う)との婚姻だ。当時はまだ濃い血縁関係が遺伝的問題があるというより、高貴な血統はその中で繋げて行こうと考えていたようだ。
なお、死後大原野西院に葬られた事から、西院帝と申し上げる。本当は、淳和院か西院院というところ院が重複する事から西院と申し上げる。(別にどうでも良いですか?)
次回は皇室史上最高の絶倫天皇へ