アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

426 あちゃこの京都観光日誌 新シリーズ「今からでも行ける京都歳時記」 箸休め 「桂離宮に行って来た。」

2018-08-21 08:05:14 | 日記

桂離宮も修学院離宮も所詮、金と時間に余裕のある方達の道楽である。今なら酒、女、博打と言うことになるが、そこはやんごとない貴族の方々である。

「桂の宮智仁」の画像検索結果「桂の宮智仁」の画像検索結果「後水尾」の画像検索結果
左から、智仁親王、智忠親王、後水尾上皇。

「後水尾」の画像検索結果

八条宮智仁親王は、正親町天皇の孫で、後陽成天皇の弟である。室町時代は極端に朝廷の財政が逼迫し御二人の父君は天皇になる前に亡くなった。つまり正親町天皇が長生きしたのだ。財力があれば上皇になって天皇を譲りたかったはずだ。即位の礼も出来ないほど苦しかったのだ。重要な事は、後陽成とその子(後の後水尾天皇)とが不仲であったことだ。次期天皇は弟の智仁宮にしたかった。けど出来なかった。何故か、智仁宮は以前、豊臣家の養子となっていた。秀吉の後の関白が確定していた、しかし甥の秀次が継いでしまい、その後淀君に男子が誕生し養子を解消した。その事が、徳川政権下では傷となった。その為、長い余生を無為に過ごすこととなったのだ。

甥の後水尾天皇との確執もあり対抗心も当然あったと思う。しかし徳川和子、東福門院の財力には勝てず、結果後の修学院離宮には規模で全然及ばない上に完成にも至らなかった。息子の智忠親王の奥方の加賀前田家の財力を得て何とか今の桂離宮が完成したのだ。
その時、叔父の後水尾上皇に行幸させているのが面白い。


舟遊びに使うので、「海の灯台」風に低く作られた燈籠。


宿泊施設としての「書院」2代智忠親王の時代に完成。有名な「桂棚」がある。


月見台。納涼場としても良い。


書院玄関。6人分の履物が置ける玄関石がある。女性は無関係です。


御幸門。後水尾上皇の為に作られた。


衝立の松。いきなり庭園全体が見えないようになっている。


州浜。前方は天の橋立。転落者続出の石橋??


御幸通。


ガイドさんは、宮内庁の係員。マニュアルを正確に読んでいた。質問には「係員に聞いてきます・・。」

可愛いから、許します。♡

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