逆順でたどる平安京の天皇たち
第82代 後鳥羽天皇 三種の神器が揃わず即位?
在位 |
1184年~1198年 |
生没 |
1180年~1239年 |
在位中年号 |
寿永・元暦・文治・建久・ |
先代・次代 |
安徳天皇→当代→(子)土御門天皇 |
御陵 |
大原陵・隠岐陵(火葬陵) |
父・母 |
高倉天皇・坊門種子(九条院) |
中宮 |
九条任子(宜秋門院) |
大物の登場だ。まずは、神皇正統記から見てみよう。後白河法皇が、高倉院の第四子である尊成親王を選んだ訳だが、第三皇子もいる中での抜擢であった。そして、平家の滅亡に際し追随する公家は皆無であったこと、木曽義仲が六波羅を攻めたものの神意に背き滅びたこと、頼朝の勲功は歴史上稀な事で再三の辞退にも関わらず征夷大将軍に任じられたことが書かれている。
そして、安徳天皇入水の為、「三種の神器」がない中での即位だった為、「法皇の詔」をもってそこに正統性があることを強調している。
三種の神器。八坂の勾玉・草薙の剣・そして八咫鏡である三種の神器は、天皇がその正当性を証明する為に、身近に所持する「しるし」(お宝)である。「天皇が保有するが故に神器」なのか「神器を持つ者が天皇」なのか。議論が分かれるが、そもそも八咫鏡は、伊勢神宮の御神体として古来からのものはそこに現存している。また、熱田神宮所有の草薙の剣が、ヤマトタケルノミコト由来の剣である。従って天皇の手元にあるのは、御魂遷しを経た「形代」である。さらに、勾玉は安徳帝入水の時に箱ごと浮かび上がった為古来のものがそのまま伝承されている。(諸説あります)
その後、後醍醐天皇が神器を吉野に持ち去り「北朝の神器は偽物だ」と宣言したこともあった。北朝がその後取り返したものの、南朝の反撃で北朝後半3代は神器不在の即位を余儀なくされた事もあった。北畠親房や後醍醐天皇は、血統と同様に三種の神器を重要視した訳だが、すでに後鳥羽天皇の時代に神器なしの例があったのである。
次回は、承久の変の経緯。